2017





時間



ギャラリー開での展覧会「日下部一司と松井憲作」を終えた。
2017年、松井憲作70歳・日下部一司64歳の秋だ。
松井さんの提案で、僕が70歳になったらもう一度「日下部一司と松井憲作」をすることにして画廊オーナーの榎本さんと約束をしたけど、もしかしたら三人ともそのことを忘れて何事もなかったかのように2023年が過ぎていくのかもしれない。
忘れる本体、つまり身体の消滅があって物理的に無理が生じることもあるだろう。

松井憲作さんとは1980年に「松井憲作・日下部一司・松島茂勝」展をやったことがあり、それ以来の展覧会だ。37年ぶり。
松島さんはとっくに他界し、生存している僕たちはたまたま2人展が可能になった。
6年後の展覧会なんてずいぶん先のように感じられるが、明日の予定のようにすぐに来るのだろう。

2017/09/16












境界





この間、仕事で徳島に行った。
アグネスホテルというビジネスホテルに泊まったら、エレベーターの表示が気になった。

デザインのことである。
文字の扱い方のことである。
きわどい扱い方をしていて面白かった。

面白かった、というのは、たぶん美術作品を見るような意味合いで面白かった。
デザインの面白さではない。
デザインと美術、その辺の境界線をこの表示で感じることになった。

「laundry」の「l」がほとんど消えかけるまで端っこに接近している。
スリリングな読みにくさである。
デザイン業界ではこれはアウトではなかろうか。
しかし、美術的な視点では「面白い」と思う。
美術的・・・なんていい加減な言い方だけれど。
2017年9月5日















肉と血液





「フック高さ 12mm」「2-5 RIGHT」「H106131」「R」と書かれている。
去年の11月に事故で肋骨と鎖骨を折って、骨を支える金属プレートを肩に入れていた。
その金属の表面に書かれた文字である。
「R」だけフォントが違う。
大きくてごく細い文字で表面の細かい傷に埋もれているから、もしかしたら傷かもしれない。
でもきれいなRに読める。Rだとしたら「Right」のRだと思う。
右肩の骨折だったから。
昨日、このプレートを抜く手術をした。
抜釘(ばってい)手術というらしい。
レントゲンに写っていた骨には四本のねじ釘も写っていて、まるで日曜大工の説明図のようだった。
手術する医師に取り出した金具を頂戴することを約束し、ここにそれがある。
ねじ四本も一緒にある。
細部に血というか肉片というか、赤い付着物が所々に見える。
まだ24時間くらいしか経っていないからちょっと生々しい。
金具が手に入ったらこれで身体と空間の位置を絡ませた「作品」のような物を作ろうと浅はかに思ったりしていたが、手元に届いたらその考えが萎えた。
加工して他人に見せるようなものではない。
2017/08/09










直線で結ぶ



カメラは一つの眼を持つので、いつも一つの点(座標) から風景を見る。
「被写体表面が持つ無数の点とその座標を結ぶ直線」の存在を想像すると透視図法的な論理性が見えて、変哲もない風景が味わい深くなる。
2017/08/05














分岐点




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展覧会に「出展する」という言い方を最近よく耳にする。
僕自身はずうっと「出品する」と言うが、この頃は「出展」派が多いように感じる。
ムカシは出展なんていう人はいなかった。
いつからそうなったのだろう。
なんだか「出店」みたいだ。

ぼくには「いらっしゃいませ、こんにちは」みたいな語感で好きになれない。
「味噌ラーメンになります」や「全然おいしい」というような感じと似ている。
言葉の使い方に引っかかるのは老人の特質で「最近の若い者は」的なつまらないことが多いことを自覚しながら、敢えて引っかかってみる。

「出展」になる分岐点はどの辺だろう。
時期のことです。

僕は、従来の貸し画廊が機能しなくなり始めた頃に端を発しているように思う。
つまり「出品派」は自分が・お金を出して・画廊を借り・作品を出す、という感覚からスタートした人。
「出展派」はどこか受け身で、すでに「展覧会」がそこにあって、その「展覧会に出す(出展)」のだという感覚からスタートした人、の違いがここに現れているように思う。

アトラクションのような町おこし展覧会の影響もある気もする。
そういう、画廊や美術館を使わない展示(雑貨店での展覧会など)の形式がやたら増えたことも原因しているはずだ。
知らんけど。

2017/08/04










美術館の壁

切り取った壁の痕跡
1997年に京都市美術館の壁布(リニューアルによる廃棄物としての壁布)を使ってパネル張りした「作品」を作ったことがある。
もう20年も前の話だ。
かつての京都市美はうすい黄土色の麻布が袋張りしてある壁面だったが、そこに書かれた無数の鉛筆やチョークの目印・釘の跡などがとても美しく、実は展示作品よりも僕は興味深くそれを鑑賞していた。
そういうこともあって、当時 学芸員のNさんに画廊などでお目にかかったとき「あの布の張り替えの時は僕に少しください」といつもしつこくお願いしていた。
言い続けて6年目に、壁面のリニューアルに合わせて「思い出のあした」という展覧会に出品するおまけ付きで念願が叶った。
日頃作品の背後に存在する「地」としての壁が、パネル張りして展示することにより「図」へと変換される様が自分でも心地よく、無数についた傷や痕跡のある布のトリミングのバリエーションを当時いくつか試みたのである。

昨日は同じ京都市美術館でワークショップ「展示室を発掘する~壁を愛でる~」を開かせていただいた。
展覧会のたびに塗り重ねられた ぶ厚い塗料の断層を発掘し関わることで、美術館の時間と痕跡を愛でる、という趣旨のワークショップである。
壁面を切り取ったり・削ったり・筆記用具で何かを書いたり・・・そういう美術館での禁じ手を破りながら、そこにできあがる空間が興味深かった。
切り取った壁の痕跡が、作品の並ぶ展示風景に見えることも面白い。
壁面の不在が作品の実在へと変化している。
20年前の黄土色の壁布を遊んだ頃の興奮がオーバーラップする。

「展示室を発掘する〜壁を愛でる〜」 より
2017/07/30










文章の体(からだ)



最近、赤瀬川原平の本を読み直している。
未読の著作をAmazonで見つけ購入したりもして、赤瀬川ブームが自分の中で再来したようだ。
昨日は「増補 健康半分」を読んだ。
2011年刊行の単行本は既に読んでいたが、増補版では当時には気づかなかった赤瀬川さんらしくない違和感を感じた。
このことを友人に話したら、毎日新聞の記者である藤原章生氏が書いた「赤瀬川さんの文体」というネット上の追悼文を紹介してくれた。
そこでは、やはりこの本のことに触れて「俳句や歌の世界ではないが、より言葉の核心というか、少ない言葉で、自分の感性を顕わそうとしていると思った」と書かれていた。
自分自身の健康状態の良くない時期の単文で、「からころ」という医療と健康をテーマにした季刊のフリーマガジンに連載していた文章なので、省エネルギーでミニマルな文章になったのかもしれない。
僕には「文の姿がやせている」と感じられた。
枯れた、とかそぎ落とされた・・・というよりはやせたという感じがする。
しかも病気によるやせかただ。
文章も病気でやせるのだと思った。
文は「からだ」を持っている。
絶筆の文章は、もう鉛筆も持てない中、口述した言葉を夫人がパソコンで入力したものだそうだ。
2B・0.9mmのシャープペンシルをつかって、オリジナル原稿用紙に書いていく触覚的な彼の文章は、この時点で既に彼のものではなかったのだが、そういう文章の姿のようなものの変化を僕はこの本の中に感じた。
赤瀬川さんほどの天才も、病気と老化に動かされたのだと思うとやるせない。
2017/07/05

藤原章生「赤瀬川さんの文体」

http://mainichi.jp/articles/20141029/mog/00m/040/006000c











動物園



岩波新書に「現代〈死語〉ノート」という新書本があって読んだことがある。
小林信彦氏の著書である。
1956年から1976年までの、今となっては死語となった言葉を集め解説している。
この本の第一刷が1979年だから、もうずいぶんムカシの書籍ではある。
おそらく当時の流行語も今の時代ではすでに死語になっている。

僕は1953年の生まれなので、1960年代の「あたり前田のクラッカー」や「ホンコンフラワー」「バカンス」「ハッスル」「ガチョーン」「丈夫で長持ち」「シェー」などいくつかの流行語を知っているし、リアルタイムで使った。
そして、今はもう使わない。
時々受けねらいで言うことがあるが失笑される。
言葉は死ぬのだ。

死語のことを考えながら、動物園という文字を眺めていたら「女の園(その)」という言葉を思い出した。
どうも「園」の訓読みに反応したらしい。
「男の園」は聞いたことがない。
それを想像すると男の僕は気色悪い。
女性も気持ち悪いと感じるのだろうか。
気にはなる。
で、女の園 は今も使われるのだろうか。
「ジーパン」や「ジャンパー」みたいに、あるいは「アベック」や「カップル」みたいに懐かしく、昭和な、オヤジくさいにおいがする。
もう結構な死語になったに違いない。
パソコン辞書を引いてみよう。

女の園
読み方:おんなのその
女性ばかり多くいる場所、女性がいるという点において特徴づけられる場所を指す語。
男性がいわゆるハーレム状態になれる場所といった意味合いで言及される場合が多い。
[実用日本語表現辞典]

死語とは書かれていないがちょっと怪しいな。
そもそも「園」とは何なのだろう。

えんゑん【園】漢字
① 果樹野菜草花などを栽培する耕地。「園芸」「菜園」「田園」「果樹園」
② 広い庭。その。また,施設。「園丁」「公園」「庭園」「霊園」「植物園」
③ 人の楽しんで集まる所。「園長」「学園」「楽園」「動物園」「幼稚園」
[Mac アプリケーション辞書]

なんと、動物園と幼稚園が③ に同類として分類されている。
動物園・・・人が楽しんで集まる動物園という解釈かな。
幼稚園・・・人が楽しんで集まる幼児の園・・・これでいいんだろうか・・・。
この場合、幼児が楽しんで集まる園と言った方が自然な気がする。
じゃあ、同じように動物園は「動物が楽しんで集まる園」といえるのだろうか。

ちょっと混乱してきた。
動物園には家族連れや幼稚園児がやってくる。あるいは保育園児がやってくる。
いつも子供たちがいっぱいなので、親や大人は「人間の子供」という動物を否応なく見ることになる。
その隙間から人間以外の動物の佇まいを覗く。
園と園が入り交じり混在する場所。
大人がその場所を楽しんでいる。
あんがい動物園は、大人が楽しんで集まるところなのかもしれないな。
そして「動物園」は死語にならない。
2017/06/06










消える



4月に東京に行ったとき、写真美術館で「知られざる 日本写真開拓史」を見た。
古い写真は写真のオブジェとしての存在感を持っていて魅力を感じる。

展示物に、消えた写真の展示があった。
ダゲレオタイプによる幕末の写真である。

展示された写真をいろいろな角度から眺めるのだが、像を確認できない。
銀色の鈍い鏡のような四角いものがコンパクトなフレームに収まっているだけなのだ。
不審に思いキャプションを見たら、写真から画像が消失した旨が書かれてある。

ガツンとやられた感じがした。
写真の痕跡、画像の居た「場所」だけがここに展示されている。
そういう写真の不思議なあり方が衝撃的だった。

写真は生きている。
いや、写真は死んでいくのだと初めて認識した。
2017/05/24










相似形が生まれる



床の間のような風景だ。
活け花・掛け軸・飾り棚・床柱など、エッセンスだけが抽出されている。
壁面には石のかたちが反復されながら「描かれ」いかにも作為的な空間である。
しかし、ここに作為はない。
おそらく雨のはね返りが壁面をむしばんでこの図を作った。



この鎖は何の目的なのだろう。
家屋と比べたらずいぶん新しい設置物だ。
ぴかぴかに光っている。
Ⅰ枚目の写真の石と同じ作用とは思えないが、壁面の腐朽具合と相似形をなしている。
物理的な相関関係は無いのと思われるが、視覚的には「原因と結果」を感じてしまう。
2017/05/22










味わい



道端にある畑を通るとこのようなありさまでいつも興味深く眺める。
手前のブロックは歩道と畑を分ける仕切り石の役目をしているが、ブロックの空いた部分に瓶があてがわれ、口には植木鉢が逆さにはめ込んである。瓶の安定のために小石が隙間に詰められ、これが実用的意図で設計されているものであることがわかる。
瓶のふたは、といえば少し離れた場所に黒のビニールシートを押さえる重しとして利用されている。
ふたの他には取っ手のとれた片手鍋や、水の入ったペットボトルなどが無造作に置かれこの風景を作っている。



無造作といえば、しばらく歩くとこんな光景に出会う。
それぞれのもののありようが味わい深く、その味わいとは何なのか答えが出ないまま今日に至っている。
逆さになった丸い大きな空き缶の上に逆さになった ちり取り。しかも缶と壁の隙間に差し込まれたように貼り付いている。
長いヘアスタイルをなびかせる箒(ほうき)とビニール傘。
ここでの魅力は、なぜか抜かれたコンセントが雨ざらしになっている様子である。
まるで「手術台の上のコウモリ傘とミシン」のようなシュールレアリズム宣言を感じる。
それぞれが全く無関係で、無関係のまま自然にそこにある不思議が「味わい」なのかもしれない。
2017/04/25











Zoom





大阪市営地下鉄 御堂筋線 動物園前駅ホームの壁面を丸型フレームで撮影したことがある。
象の鼻が円弧状に曲がって、丸いフォーマットにきれいに入ることを発見し撮影したのだ。
先日同じ場所を通ったら、乗降位置案内の看板が立っていて、以前のようにきれいな丸型フレームで撮ることが困難になっていた。
僕の中の「名所」が壊された感じでがっかりした。
陶板作品にとっても無神経な位置だと思う。
腹いせに正方形フォーマットでこれを撮ってみた。
いつもの二分割構図である。
2017/04/16











100分の1



http://purimemura.wixsite.com/purimemura/blank

学生だった頃、雑誌の付録で100年間分のカレンダーを手に入れたことがある。
一枚の紙に100年の日にちが小さな文字で印刷してあった。
数字だけの一枚の紙だったけれど、これから先の自分の未来とその終焉の日がそこに記されていて怖かった。
あのとき見たカレンダーにあったうちの「一年」が今日で終わった。
毎日一枚の写真をここに掲載したが、終わってみるとずいぶん早かったと思う。
100年もきっと早い時間の流れなのだろう。

写真のアスペクト比に最近特に興味を持っている。
風景が比率によって変わって見えるからだ。
面白いといつも思う。
自分の眼と被写体までの距離、位置が写真をつくる。

Web上展覧会は終わったが、写真は終わらない。
明日も同じように四角いかたちで風景を見ることになるだろう。
この地球の風景も、変化こそあれ 終わりはないはずだ。
あのカレンダーはどこかに行ってしまったが、あの時見た数字を僕は確実に生きている。
2017/03/31














円形写真



最近フィルム撮影を再開した。
円形写真を撮っている。
まるい写真を撮れるようにずっと以前にカメラを改造して、そのままになっていた。
ネガキャリアもそれ用に制作したつもりになっていたけど、どこを探しても見当たらない。
たぶん作ったと思い込んでいたのだと思う。
改めて作らないといけない。
作るといっても既成のネガキャリアを使って、まるい穴の開いた金属板二枚を挟むだけだけれど。



デジタルで最終イメージを現像してみた。
普通に処理したらエッジがきつすぎる。
ここは光の持つ柔らかさで印画紙になじませたい。



そして制作したネガキャリア。

2017/03/15












写真がしゃべる

毎日新聞 朝刊 [2017年3月10日] より

事の真相はまだわからない。
しかし、いろいろたくさんの事情が絡み合ってよろしくない状況が生まれたらしいことはたしかだ。
一面にこのニュースが載っている。
そして写真が一葉掲載してある。
意図してか しないでか、画面の左三分の一ほどを使って「×」の形が写し込まれている。
この報道にこのバツ印の物体は必要ないはずで、でもこのバツがものを言っている。
バツがものを言っているというよりは、新聞社・あるいは写した報道カメラマンの気持ちが表れている。
知らんけど。

2017/03/10










包む



病院で薬をもらった。
一包一包、包んである。
田舎の診療所ではたいていこんな風に薬を調合したものをくれたものだ。
一つ一つの包みを連ならせて一列になったものが、白い内用薬の袋に入っていた。
少量の粉ものを包むときの方法をここから学んだ。
学ぶ、と言うほど大げさなことではないけど、包むときには昔飲んだ薬を思い出してしまう。
再会が新鮮で、そして懐かしい。
ぱりぱり音がする硫酸紙を伸ばしながら、温水でぱらぱらと薬を飲む。
味も昔の味がした。
最近は、些細なことにじんわり感じてしまう。

2017/02/28









油断するな



最近見つけた家。
壁面の様子が美しく、何度か日を選んで写真を撮っていると、ある日解体工事が始まった。
このように、うっかり油断をするとやられてしまう。
何十年もここに建っていたこの建築物の最期を 記録できたことは嬉しい。

2017/02/17 










版画のこと



先日「大阪版画百景ー大阪新美術館×大阪府20世紀美術コレクション-」という展覧会が大阪府立江之子島文化芸術創造センターで開催された。
大阪新美術館建設準備室と大阪府立江之子島文化芸術創造センターとの共同企画によるものである。
20世紀以降の大阪の版画 約140点の展示で版画の魅力をつたえる、いまどき珍しい企画で楽しめた。

1970年代はじめに僕は大学で版画を始めた。
当時は「版画ブーム」であり、複数性や版を使うことの必然性についてよく議論になったものだ。
最小限の版数で最大の効果を出すことがよしとされたし、むやみに版数を使うなら手で描きなさい とも言われた。
そんなことがきっかけかもしれないが、僕はミニマルな美術へと興味を移していった。
そしてイメージではなく物質にとりつかれるようになると、もう「版画」が要らなくなった。
表現の手段としての版画に魅力を失っていったのだ。
ただ、「版」という概念を基にできあがってくる様々なものにはさらに興味を持つようになる。
いまは、グラフィカルな版画にもう未練が無い。

ゼロックスと呼ばれたコピー機ができた頃、その複数性に引き込まれた。
それを使ったたくさんの「版画」が発表されたりして「版画概念の拡大」も多くの美術家が試みた時代が70年代である。
パソコンとプリンタの普及、インターネットによる情報の共有、それらのよって 今日では複数性の魅力なんて無くなって 版画の時代は終わった。
いや、ただ休んでいるだけかもしれないけれど。

古い自分の作品も一点展示していただいた。
若い頃の自分の顔写真を見るような 時代の空気と照れくささ、時間の推移を感じる。
一緒に見に行った留学生が「死んだ人とおじいちゃんの展覧会やった」と言った。
流ちょうな日本語だった。

2017/02/17











固有性

襖の向こうの風景 315×40×240(mm)ハーネミューレ紙にガム印画・鉄 2016

「ネガ」という概念を生み出したカロタイプ以降の写真の流れは、デジタル写真の出現で大きな変化を遂げる。初期のダゲレオタイプ・その後のリバーサルフィルム・ポラロイド写真のように、ネガを媒体としない写真もあったが いずれも「光」の反応を利用した印画システムであった。しかし、デジタル写真では撮影段階で光を必要とするものの、印画では光を必要としない。このことは写真画像を考える上で興味深いことである。ピグメント法にせよ銀塩写真にせよ、それまで光と化学反応によって粒子レベルの「点」を整理することで画像を作ってきたものが、デジタル写真ではまるで手作業のような恣意性で「点」を操作している。コンピュータという「手」を使いアナログ的に画像を作っているのだ。ディストーションの修正や色収差の補正・変形・合成など、フィルム時代には考えられなかった加工がいとも簡単にできる。このように考えてみると、デジタル写真ほどアナログ的な写真はこれまでなかったともいえる。

 そもそもデジタル画像が映える支持体は何なのだろうと考えると、おそらくスマホやパソコンのモニターではないかという結論に達する。つまりモニターで拡大しながら細部をチェックするような写真の見方に向いている。フィルム時代にもネガをルーペで確認することはあったが、印画紙自体をルーペでのぞき込むことはなかった。モニターと拡大機能、そして光で色を再現することによる色彩の透明性がよく似合う。

 このようなデジタル写真の出現により写真という概念が大きく拡大した。本来デジタルとは、物質システムなどの状態を離散的な数字・文字などの信号によって表現する方式のことであり実体を持たない。物質そのものに関わるためにはなんらかの人為的なアナログ操作が必要である。デジタルは概念であるが、可視的な物質を身にまとうとき同じ顔を持つコピーとして姿をあらわす。デジタル化された写真が液晶という物質に出合うことで無限に増殖するように、デジタルを可視化するには物質を媒体としなければならない。

 デジタルイメージは、通常モニターや印刷される紙などを支持体にしてはいるが、それらの質感によって写真はイメージを変える。このことをいつも興味深く思う。印刷する紙の質感や大きさ・薄さや重さなど、物質の持つ様々な性質が映像に味付けをするのである。物質には固有性があるのだ。例えば、同じ風合いを持つ「紙」という物質も、この紙とあの紙は同じものではない。モニターの場合であっても同様で、A社のモニターと B社のモニターの違い、新しいモニターと古いモニター、大きさの違いなどによっても写真イメージは違う表情をあらわす。つまり、デジタル情報は複製可能でそれらは全く同じ情報として存在するが、アウトプットした段階で個性を持って出力されるのだ。
2017/02/06












風景をなぞる



 プロジェクターで壁面に映し出す写真は電源を落とすと消えてしまう。こういう点はモニターで見るデジタル写真と同じだ。映像がそこに実在しないのである。印画紙にプリントしたり印刷した写真に安心感を持つのは映像がそこに実在する安心感のせいかもしれない。
 昨年、ヴォイスギャラリーの個展では数多くの写真を高さも揃えずランダムに展示(壁に直接糊貼り)したが、こうした場合、一枚一枚丁寧に写真を見るという行為がしにくくなる。情報量が多すぎると注意力が働かない。それはちょうど身の回りの風景にいちいち注目しない状況と似ている。風景を眺めるには注意力を喚起する何らかの仕掛けが必要なのである。そこでこの展覧会では短い文章を写真と組み合わせる試みを行った。
 その展覧会のダイジェスト版のような印刷物を作った。これは折りたたみ構造に写真をちりばめ、言葉を補うことでいくつかの風景をなぞるものである。手の中にある写真イメージはちょうど版画を愛でる時の感じに似ているようにも思う。視覚と触覚は切り離せない。
2017/02/01













ことばでは伝わらない



絵はがきのような美しい風景ではなく、さりとて造形美に満ちたバランスもない。
写真表現という体臭が臭う写真でもなく、無意識に写ってしまった映像でもない。
思い出の写真でもなく、誰かに褒めてもらうためのものでない。
それを愛でる上での造形原理を持たないが、しかも放ってはおけない気になる風景。
​​そして、ことばでは伝わらないと思われる景色。
そういう写真を集める場所を作った。
​http://szkbksk.wixsite.com/kusakabe-kazushi

​2017/01/01





























2016年





風景の骨格



霧の濃い日に、またこの場所を撮った。同じ場所を何度撮影したことだろう。
水が張ってあったり・稲が植わったり・刈り取りがあったり・耕されたりと変化をするが、その都度カメラを向けてしまう場所だ。
被写体としての「骨格」ができているからなのだろう。
2016/12/27









ゆがむ





「KENKO FISH-EYE 180°」を久々に取り付けてみた。画角が180度だという。眼の前の風景を180度の視野角で撮影することができる。パノラマカメラは、カメラ自体を動かすことにより360度の視野角でも撮影することができるが、カメラやレンズを動かさないで写せる最大の角度は180度だろう。当然人眼の眼とは違う視界がとらえられる。
いわゆる「魚眼」的な写りをするが、疑似魚眼レンズ(コンバージョンレンズ)だから色収差や鮮鋭さを欠く。カラーでは使えないがモノクロームにするとそれらが気にならない。
被写体の極端なゆがみが面白いとも言えるが気持ちも悪い。人間の眼では見えない視界のゆがみがそこにあるからだろう。
2016/12/25









アスペクト比

[21:9] アスペクト比

 写真画像の縦横比のことを「アスペクト比」と呼ぶ。多くのカメラが標準的な[3:2]の比率を採用しているが、[16:9]や[1:1]を選んで撮影できる機種もある。つまりアスペクト比は目的に応じて使い分けるのだ。
 正方形の写真に惹かれた時期もあったが、今は16:9の横長フォーマットを縦にして使う撮影が面白い。ジョセフ・スディクがやたら縦に長い画角で撮っていて、その比率にも興味を持っている。まるで掛け軸の絵のような比率だからだ。縦に長いファインダーをのぞいてみたい。
 先日SIGMAのdp Quattroシリーズのカタログを見ていて気づいたのだが、このシリーズでは6種類ものアスペクト比を使い分けることができるようだ。これまでFoeon X3センサーの作り出す高解像度の画面のことについてしか見えていなかったのに、新たにこのカメラのアスペクト比の魅力を発見してしまった。[1:1][4:3][7:6][3:2][16:9][21:9]という6種類のフォーマットが選べる。
 デジタルのオリンパスペンが出たとき、なぜ縦位置のフォーマットが選択できるようにしないのか疑問に思っていた。ペンといえば縦位置画面なのにそこを忘れられていて快く思っていなかった。比率は私にとって重要な問題だ。
 とはいえ、Quattroシリーズのこれらの比率は基本画面の[3:2]画面の一部をカットして作られるものなので、面積に対する解像度は落ちることになる。しかし、高解像度を誇るこのシリーズでは、画像の劣化が気にならないはずだ。
 [21:9]の縦型フォーマットで風景をみたらどんな写真になるのだろう。その興味がどんどん膨らんできてQuattroシリーズが欲しくなる。
2016/12/27










支持体



 絵画では絵の具が付着するための支持体(たとえばキャンバス)が必要だ。写真も同様で、撮影したイメージを見るために支持体を必要とする。それは印画紙であったり・印刷用紙であったり・スクリーンであったり・モニターであったりする。
 支持体への興味は自分の写真にとって重要な要素になっているのだ。何がどのように写っているのか・・・ということだけではなく、どこにどのようにイメージが定着されているかということに注意を注いできた。それはたぶん、私自身がかつて行っていた版画表現の経験から来るものだろうと思う。紙質や厚み・紙の色や大きさ・余白の量・インクの質感・額装など、版画では当然考慮するそういったことがらを写真にあてはめているに過ぎない。
 ガム印画を始めたのも、通常の印画紙にプリントしたときのイメージの希薄感からであろう。RCペーパーよりバラ板紙が好みであるし、モノクロームの「黒」の中の色のバリエーションがもの足らず、調色を施すようなことである。それが高じて古典印画法を用いるようにもなった。私にとって「写真の物質感」は、外せない要素なのである。最近は、作品の物理的な「重さ」も大切ではないかとさえ考えるようになった。
2016/12/08









モランディの埃


モランディのモチーフを撮った写真集(MORANDI’S OBJECT / JOEL MEYEROWITZ)を購入した。
モランディのアトリエで作家が使っていたモチーフを一つ一つ撮影している。
光線の様子、影の付き方も忠実に再現している・・・。再現している、というのは違うかもしれない。アトリエのこの場所にものを置いたらこのように普通に影がつくのだろう。モランディの絵の影はひどくはっきりとついている。
「モチーフにはビロードのように分厚い埃が堆積していたが」と、僕は京都文化博物館の図録(アートと考古学展)に書いたが、この写真を見る限り「ビロードのような」積もり方ではない。どこかで読んだ文章をそのまま鵜呑みにして書いたからちょっと後ろめたい気持ちになる。
写真では指の痕なんかが埃についているものもある。これはモランディの指の痕跡だろうか、それとも他者のものだろうか。
カメラでモチーフを写しただけの写真集が、モランディのエッセンスを感じさせる。しかし、絵筆のタッチと絵の具の質感、空間構成、図と地の関係など・・・そういうものがないとモランディにならない。
2016年12月3日









モランディの埃と不明瞭レンズ
日下部 一司
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 ジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)はイタリアの画家だ。シンプルなアトリエの薄暗い部屋に閉じこもり壺や水差しなどの限られたモチーフを配置し繰り返し描いた。モチーフにはビロードのように分厚い埃が堆積していたが、それを払うこともなくむしろそのような「自然な状態」を愛したと伝えられる。
 モチーフの位置や構図がストイックに決められ、それらをゆっくりと確認するような筆使いで描かれている。それは画家と言うより研究者のような眼差しである。
 物を配置すると、その向こうに背景が生じる。物と背景をキャンバスに描き写すとき、立体的な空間が平面的な空間へと姿を変える。量感は面積としてキャンバスに現れ、そこからモランディの探求が始まるのだ。
 ここで、京都市文化博物館資料室の遺物に付着した土や汚れ、そして埃のことを思い出す。モランディのモチーフと遺物は酷似している。埃や汚れは遺物の周りにあった空気の匂いや湿度、温度までも付着させてそこに存在する。そんなふうに思えて、これらを写真におさめることにした。
 撮影には古いレンズ(1920年頃)を使うことにした。古いレンズには現代のレンズに失われた収差がある。収差とは、レンズによる被写体から像への変換の際、理想的に結像されずに発生するにじみやボケやゆがみのことである。輪郭は比較的はっきり写るのに、明部から暗部へと滲むこのレンズの持つ不明瞭さは、ちょうどモランディのアトリエの埃のように優しく穏やかな時間を想起させる。 
(「アートと考古学展」図録より)

「アートと考古学展」図録より モランディ風に撮影した遺物(撮影:日下部一司)












レンズのこと



正体不明のレンズを買った。
おそらく1900年代前半期 6×9判蛇腹カメラのものだと思う。
コダックのベス単のように「フード」がついている。



M42マウントに取り付けられるように改造した。
焦点距離はたぶん109ミリ。



フードを外し撮影したら、若干色が濁るが軟焦点の写真が撮れた。
ベス単と似ているが、癖は少ないように思う。



単眼レンズらしい独特のぼけ方で興味深い。



常用レンズとしてはもちろん使えないが、
これ1本だけで一日出かけるとしたら、良い写真が撮れそうな気もする。
不自由さが被写体を見定める眼を鍛えるように思う。
2016/11/26







骨の写真



写真は光による「自然の鉛筆」で描かれるのだ。
というのは誤りで、光の当たらない場所がX線で写すことができる。
しかも3Dだ。
先日、リアルな自分の骨を生きながらにして見ることになった。
骨だけを抽出して眺めると、どうしても死を連想してしまう。
完全な死のかたちが骨だからだろう。
2016/11/08









レンズのこと

映画「近松物語」より



先日、友人の誘いで溝口健二の「近松物語」を観た。
そろそろ63歳になるのに、この名作を見たことがなかったので良い機会を得た。
内容よりレンズ効果ばかり気になった。
湿ったというか湿度の高い映像で興味深い。

KONICA HEXANON 1:1.4 f=57mmで撮影

KONICA HEXANON 1:1.4 f=57mmというレンズが「近松物語」のレンズ描写に似ていると思った。
湿り気のある柔らかい描写をする。

JUPITER-9 2/85で撮影

近松物語は1954年の作品だ。
東京物語が1953年。
制作年がずいぶん近い。
そしてレンズの味が似ている。
JUPITER -9は東京物語のレンズに似ている。
福原信三の写真も柔らかくよく似ていて、このあたりの描写が好きだ。
福原の場合は1922年代に活躍しているから、二人の映画作品より古いのだけれど。
古いレンズは湿度が写る気がする。



カラーで見るとこんな感じで、やっぱり湿っている。
ちなみに、JUPITER -9はロシアのレンズだ。
2016/11/08









モノクローム



古いレンズ(KONICA HEXANON 1:1.4 f=57mm)を持って近所を散歩した。
癖のあるレンズで手強いが、結構好きなレンズで手放せない。



デジタルカメラを使うようになってからめっきり「カラーの眼」でものを見る。
フィルムの時はモノクロフィルムを使っていたから、いつも白黒に還元しながら風景を見ていたのに。
2016/10/30









W[Double]





W[Double]というタイトルの簡単な印刷物をつくった。これで二冊目である。
蛇腹状に折りたたんだものを二枚まとめただけなので、一冊・二冊という数え方で良いのか迷うところだ。
二枚一組で「Doubl」という駄洒落で最初はつくったのだけれど、これを二冊つくると「Double」の意味合いがすっきりしそうで、それで作ることにした。
蛇腹状のこの写真集は半分広げて立てると「W」の形で立つ。
内容は、改造カメラで撮った円形写真をまとめたものである。
写真集の帯を印刷していて、このようなミスプリントができた。
なんだか面白くて写真に撮ってみた。
2016/09/19









付着する写真

相関関係にある2つ(部分)

信濃橋画廊(大阪)個展会場 風景 2006

 壁面の凹凸に沿った「触覚的」な写真というものに興味を持っている。プロジェクターで壁面に映し出す写真はまさに壁面にぴったり貼り付く映像であるのだけれど、電源を落とすと消えてしまう。こういう点はモニターで見るデジタル写真と似ている。映像がそこに実在しないのである。
 2006年に信濃橋画廊で個展をしたが、そのとき初めて薄い美濃紙にプリントした写真を壁に糊貼りした。釘の跡やクロスの継ぎ目・折りムラなど、そういう通常は気にとめない物質感を持った壁面が和紙によって強調され、そしてそこに映像が付着する。薄い美濃和紙の厚みは、もう肉眼では確認できないほど存在感を消すが、それでもしっかり紙の輪郭が薄い色面で確認できるのである。
 この方法が気に入ってたびたび試みてきた。今回の個展は和紙に変わってごく薄い純白ロール紙を使用する。画廊の壁面が光沢のある硬質な素材なので、紙も光沢のある、しかも薄い紙を選んだ。パネルやフレームのような出っ張りのない、壁面に同化する展示を再度試みようと思っている。
2016/09/16









景色を眺める 


平安神宮 大鳥居


印画とプリンター出力
 印画紙に焼いた写真を見る習慣が長かったので、プリンターで出力したパソコンの写真が簡易的で嘘っぽく感じられてしまう。昭和生まれの大人はこのような感想を持つのではなかろうか。いやそんなことはない、という若い人もあるかもしれないが、私自身はプリンター出力を快く思わない。
 しかし世の中はもうそんな時代でもなく、プリンターも印刷用紙もかつての印画紙のような肌合いや調子を再現すべく技術的な進歩を遂げつつある。各家庭でかつての「手焼き」プリントのように神経を使ったプリントも可能になっているのだから、べつにそれはそれで受け入れていけば良いのだろう。事実、私自身もデジタルカメラで撮影するようにもなったし、パソコンにつないだプリンターで出力している。プリントしない写真は、自分のホームページなどにアップロードし、モニターで再現できるようにもしているのだから・・・。

水に滲む写真
 今回このような形で写真を展示することにして困ったのは、インクジェットプリンターで出力した写真が水で滲むということだった。少なくとも自分が愛用してきたプリンターの写真は水が苦手だった。
 そこでレーザプリンターを購入したのだが写真の再現性が極端に悪い。もともと文字や図表を印刷するビジネス用途に開発されたものだから、写真は苦手なようだ。特に暗部の再現が悪く、色の偏りも激しい。尤も高級機種を購入したらこの問題も解決したのかもしれないが、それでも専用写真用紙に10色インクでプリントするような再現性は求められないだろう。

デジタルイメージの支持体
 そもそもデジタルカメラの画像が映える支持体は何なのだろうと考えると、それはスマホやパソコンのモニターではないかという結論に達する。モニターで拡大しながら細部をチェックするような写真の見方に向いている。フィルム時代にもネガをルーペで確認するようなことはあったが、印画紙自体をルーペでのぞき込むことはなかった。モニターと拡大機能、そして光で色を再現することによる色彩の透明性がよく似合う。
 それともう一つは顔料を使った印刷であろう。支持体として様々な紙質を選ぶことができて、印刷自体の作業効率も格段にアップすることができるデジタルデータの居場所として適していると思う。

顔料を使った写真現像
 印画紙を失ってしまった今日、顔料と紙という組み合わせが今の私には一番抵抗感が少ない。以前から研究しているガム印画も、顔料によるプリント(ピグメント法)であるから、そういう点に興味を惹かれるのだろう。
 顔料によるプリント、という観点でもう一度インクジェットプリンターを見直したとき、顔料インクを使ったプリンターが浮上した。この展示で使用したプリントは顔料によるものである。染料に比べると水との相性は格段に良い。つまり滲まないのだ。ただ、レーザプリンターほどでないにしろ、暗部のつぶれや色彩の再現性には結構問題がある。包装紙に似た粗悪な紙にプリントしたものを水性糊で壁に貼り付けるような使い方は非常に特殊なので、その時点でもう従来の写真の楽しみ方(鑑賞の仕方)を目指しているのではないのだからそれも致し方ない。

印刷物としての写真
 印画と印刷は出力の方法が違う。印画は光を媒体として行うが、印刷は版とインクが媒体となる。今回使った顔料インクを使うプリンターは、オフセット印刷の顔料の乗り方に近いことが気に入っている。イメージとして,薄い紙に印刷された消費目的の印刷物を壁面に貼り付ける会場構成を狙った。
 タイトルのような単語、思いつきで書いた文章も「印刷物」としての見え方を演出するためである。写真を見るのでもなく、文章を読むのでもなく・・・そういう場所をつくってみたいと思った。
 眼球には写っているが決して見ているわけではない。見ようと思わないと何も見えてこない景色をここに再現してみよう。
2016/08/29









発掘と手直し




発掘と手直し

 写真が被写体の一部分を切り取ることで成り立つように、「既に在るものを選び出し、最小限の手作業を加え構成する」という方法で今回の作品は制作されている。
 一九七五年に作品発表を始めて、それから今年でもう四一年経つ。過去に作った作品が、中には破損したり変色したり、あるいは自分の作品として今はもう認知したくないようなものも現れてきた。
 作品は自分の体と脳が関わった痕跡である。身体は生きているし、生きている限りは変化もする。だから、今の自分が過去の自分を認めがたい状態もやってきているのだろう。だから今の私は、過去の作品に加筆したり、修復したり、手直ししたりすべきだとも思う。
 博物館のこの展覧会のために、これまで作った自分の作品を探してみることにした。その作業が「発掘」のようで面白かった。古い自分の作品に再会しても、どこか客観的な眼でこれらを見ることになる。そのままでよいものもあり、手直しが必要に感じられるものも出てくるのだ。
 「作品」は「品」だけれど、本当は「品」の体裁を持たなくて良いと思っている。自分の身体と脳が見つけた気になることがら・・・それを具体化する装置を「作品」と呼ぼうと思う。だから私の「品」のかたちはこれからも変化し続けるに違いない。
2016/07/13

















レンズと遺物

 1920-50年代は折りたたみ式のカメラが流行った。スプリングカメラとか蛇腹式カメラとも言う。昔のことだ。その頃は日本にもたくさんのメーカーがあって様々なカメラを作っていたけれど、一眼レフやコンパクトカメラの台頭によって姿を消し、今や「タンスの肥やし」になっている。いや、もういくらなんでもそろそろ肥やしとしての役割を終えて、タンスの中から完全に消えかかっているのではないか。タンスを脱出したカメラは、中古カメラ屋やオークションなどに顔を出していたりする。
 そういうカメラを最近よく購入する。しかし、あまりにも長い時間の経過が本体にダメージを与えている場合が多い。蛇腹に穴が開いていたり、ボディがさびていたりする。中には蓋がちゃんと閉まらないようなものもある。要するに、もうカメラとしての機能を失っている。でもレンズだけは美しい状態だったりするので、それを取り外し現代のカメラに取り付け愛でるのだ。
 集めたレンズは引き出しに収納しているが、その様子が文博の遺物のケースに似ていることに気づき苦笑する。
 古い時代のレンズは、その時代の光学技術の集大成として存在していたし、だから風景や人物・気温や湿度までもその眼で見つめ素直に記録してきたのだ。当時のレンズを使うと、その時代の空気が写る。そんな気がする。レンズが自分の眼で、今という時代を解釈しているかのようだ。。
 今回の展覧会のために遺物を何点か撮影したが、多くはこうした古いレンズで撮っている。現代のレンズのようにシャープな切れ味はないが、緩やかな時間の流れを写し出す。
2016/06/21










湿板写真



湿板写真を撮ってもらった。
ガラスの上に感光剤を塗りそれが乾かないうちに撮影し、現像する。
紫外線を多く感じるらしい。
めがねをかけるとサングラスのように写るという。
当時の現像液を復元し、当時のカメラやレンズで撮った。
自分がまるで偉業を成し遂げた幕末や明治の人物みたいに写った。

画像のグラデーションが今日の写真と違う。いや、質感といっていいのだろう。
写真の質感。写真の質感は支持体の質感にも通じる。
銀塩の輝きやガラスの光沢、黒いビロードとガラスという物質感の間に生じる映像のあり方。そういうものが湿板写真を作り上げている。
被写体はなんでもよい。なにかが写っていたら、もうそれはそれで写真としての充分な魅力を発する。
何よりの重要なのは物理的な「重さ」だろう。
軽くもなく重くもなく、このガラスの重量感は写真によく似合う。
そして写真は「箱」と相性がよい。
2016/07/06









東京物語



久しぶりに「東京物語」を見た。
映画好きでもない自分がこの映画に関しては軽く数十回は見ているはずだ。
見る度に発見があるので飽きることがない。
映画と言うよりは、連続するスチール写真として見ているのかもしれない。
例えば250分の1で撮った写真は、250分の1秒間の短いムービーなのだ・・・と言うのが僕の考えであるが、その短い「映画」が連続して物語を作っていく。
それが「東京物語」だ。
同じショットの使い回しではないかと思うほど、似た場面の繰り返しが多い。
あまりにも多いことを今日は改めて感じ、感心してしまった。
同じような・・・であって、同じではない。
繰り返しを重ねながら変化していく様がとても心地よいのだ。
見る度に刺激をもらう。
ストーリーからではない。
その組み立て方の隙の無さからである。
緻密に作り込まれた写真を、時間の流れの中で繰り返し楽しむことができる。
ちなみにこの映画は1953年に制作された。
63年前の映画である。
2016/06/10









偶然



写真をまとめる試みをWeb上で行っている。
今朝この写真を載せた。
何年か前の写真なので、どこで撮影したのか忘れていた。



そして今日、歩いていた中山寺(伊丹市)でこの影を見つけた。
同じ日のこの偶然に驚く。
2016/04/21









発掘



古い作品を探している。
もう十数年前に信濃橋画廊で発表したこの鉢だ。
どこを探してもない。
ストレスがたまる。



同時期に発表したこの作品が見つかった。
この存在を忘れていた。
自分の作ったものを忘れるということがあることに驚く。
皿には、鳥居と神社と雁が三羽、杉の木も描かれている。
6枚ともこれらがちゃんと描かれてはいるが、みんな違う。
ひどく違う。
コピーの時代に育った僕には「同じ」という感覚がこの時代の人とは恐らく違うはずだ。
この皿の時代は、6枚は「同じもの」だったのだと思う。

夏に京都市文化博物館での「考古学と美術」という展覧会に参加することになっている。
同展のカタログ写真撮影の仕事でずいぶんいろいろな発掘物を見た。
そういう「発掘物」と一緒に自分の作品を並べるこの企画は楽しみだ。

何を展示しようかと考えている。
そこで、とりあえず自分の古い作品を「発掘」することにした。
よくよく考えてみたら、古い道具類をそのまま展示するようなずるい手をずいぶんやってきている。
そうか、こういうものを「今」新たな構成で発表するのもいいかもしれない、と思い始めている。







こんな作品も「発掘」された。
1999年に作ったものらしい。
梱包材に書かれてあった。
「ギタイ」と名付けたこの作品は、同年の個展には出品されず、未発表のままだったらしい。
そんなことも忘れている。

ピカソの贋作を、本人が認めた話を眉唾ものと思って笑ったことがあったが・・・、そういうこともあるだろう。
まだ62歳の自分が、自分の作品の存在を忘れている。
可笑しいな。
2016/03/29


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発掘と修復

日下部 一司

 シンメトリーに入ったひびが面白くて、古びた小鉢を二つ買い求めたが、既にその段階で派手な割れが入り無造作に継いであった。二〇〇七年には信濃橋画廊(大阪)での個展で、この小鉢をそのまま展示したことがある。そのままといっても、このようにひびが山形に感じられるようにくっつけて「問いと答え」というタイトルで展示した。それにしても、見つけてきたガラクタをただ並べただけで「作品」と称して展示するなんて厚かましい行為ではある。その「作品」がどこか行方不明である。数日前からからこれを探しているが見当たらない。ストレスがたまる。
 代わりに、その小鉢と同時期にレイアウトした六枚の小皿「作品」が見つかった。この存在を忘れていた。自分の作ったものを忘れる、ということがあることに驚く。皿には、鳥居と神社・鳥が三羽、樹木も描かれている。六枚ともこれらがちゃんと描かれてはいるが、みんな違う。ひどく違う。「複製の時代」に育った私と、この時代の人とでは「同じ」という感覚に違いがあるはずだ。おそらく当時の人にはこの六枚が同じ図柄だったのだと思う。あるいは六枚とも違うものとして制作されているのかもしれない。彼らは「オリジナル」の時代に生きていた。
 自分の古い作品を探していると、この春に京都文化博物館で見た膨大な量の発掘品を思い出す。忘れ去られたモノが発掘によって収納された倉庫の光景である。それらは必要に応じて修復され、白い石膏と同化しながら見事に整理されていた。博物館の資料は、たとえば今回の展覧会のような機会に陽の目を見るが、その提示の仕方で歴史の文脈とそれ自身の存在理由を語ることになる。
 ひび入りの小鉢二つはさんざん探したあげく、これまで何度も確認した段ボール箱の底で見つかった。思っていたよりずいぶん小さかった。その大きさが「発掘」の眼を鈍らせたのだろう。思い込みは禁物だ。
 ここしばらく自分の過去の作品を探している。今度の展示に使ってみようと計画しているためだ。古いものはどんどん古くなっていくのではなく。その組み立て方で今の時代を語るはずだ。発掘にも似た作品探しをしながら、私は出てきたものの修復を目論んでいる。この小鉢も修復が必要だ。(アートと考古学展図録より)
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ハーフサイズという縦型写真



デジタルカメラ OLYMPUS PEN-F が発売された。
以前にもE-Pシリーズとして、フィルム時代のFシリーズのオマージュのようなカメラが出て、迂闊にも購入し幻滅したことがある。
幻滅の理由は、まずシャッター音だった。
タイムラグも長いし、何よりモニターの色が濁っている。
これには撮影意欲を削がれる。
でももっとも気に入らなかったのは、ペンという名前を持つくせにファインダーが縦型でないことだった。
ハーフサイズ写真が持つ縦横の比率は美しい。
ノートリミングにこだわる自分にとっては、矩形の比率は気になる部分である。
しかも縦型。
通常のカメラファインダーは横型である。
あるいは正方形。
その中でペンは構造上の理由から縦型だったのだ。
縦型で対象を捉えると、いつもと違う視界が広がり新鮮だ。
そういうところがおもしろいカメラだった。
今度の新製品・OLYMPUS PEN-Fは、フィルム時代Fの形のデザインをことごとく真似ている。
まるで復刻版のようである。
どうせ復刻版を作るなら、縦型に写るカメラが欲しい。
焦点距離や画角の制限など様々な問題がここにはあることはわかるが、形を似せるなら中身も似せて欲しかった。
せめて縦型フォーマットを選べる機能が欲しい。
OLYMPUS PENというカメラは縦に写るカメラなのだから・・・
2016/01/30









「互いに関連することがらの間に起こる時間のずれ」のこと



タイムラグ
time lag
ある現象の反応がすぐに起こらず,遅れて起こる際の時間のずれ。

写真用語としてのタイムラグは、シャッターボタンを押してからシャッター幕が開くまでの動作の遅れを指す。写真撮影については当然タイムラグは少ない方が良いので、カメラ選びの重要な要素になったりもする。

タイムラグという言葉の一般的な説明が知りたくていくつかの辞書を引いてみたら、微妙なニュアンスの違いがあって面白かった。その中で「互いに関連することがらの間に起こる時間のずれ」という持ってまわった言い方があって、この表現が気に入った

十数年前に撮影した数百枚の写真が未発表のまま段ボールに入れたままになっていたことを思い出した。開封しそれらを改めて眺めているうちに、当時さじを投げてしまった続きの作業を今ならできる気がして取り組んだ。ああ、これは一種のTime lagではないか。

衛星中継のレポーターの受け答えのような非日常的会話のテンポを聞くときのような感覚・・・いやちょっと違う気もするが、要するに過去と現在の「時間のスキマ」を見つめることが今はおもしろい。
2016/01/24









父のこと



最近、振る舞いが老人のようになってきた。
63歳になる年だからそれも致し方ない。
老人のようにと言ったが、実は元気な頃の父親に似てきた。
しゃべり方や食事の仕方、歩き方、もしかしたら呼吸の仕方まで一緒ではないか。
父は死んだが、私の身体の中で生きている。
もしかしたら自分はあの父ではないかと思ったりする。
少なくとも父の生命を受け継いでいることは確かだ。

父は芸術とは無縁だったが盆栽を愛でた。
器用で、ものを作るのが好きだった。
そういうところも似ていると思う。
「絵を描くこと」ではなく「ものを作ること」あるいは盆栽のような「見立て」に興味が行くのはまさに父の領域である。

正月からこんな話もアレだが、父は「ありがとう。すまなんだなあ。」と何度も繰り返しながら息を引き取った。
自分もこんな辞世のことばが語れるような残りの人生を生きたいと思う。

年末から年をまたいで工作室で制作を行っている。
木を切ったり釘を打ったり磨いたり、そういう作業が楽しい。
芸術がではなく、単に工作が楽しいのである。
やっぱり自分は芸術家ではなく、単に工作好きな年寄りである。
それもまたよしである。
2016/01/01





















2015年










平行感覚




水平・垂直の感覚は「重力」に由来するのだと思う。
視覚的には水平線・地平線のような「地球の表面」を意識するところから生まれる。
写真世界では「矩形の縦・横」が影響している。
そうやって僕は水平・垂直を感じながら写真を撮っている。
球体に風景画を描く ということをやったことがあるが、この場合上下関係が混乱する。
混乱するというよりは不可能だった。
では、球状写真というものは可能なのだろうか。
それはもう地球や宇宙自体を指すことになるのかもしれない。
ならばやっぱり不可能だ。
かつて三船久蔵十段(柔道)は「球は倒れたためしがない」と言った。
上下や縦横の重力構造が球自体には無いということだろう。
2015/12/29






中心




円には中心がある。
もちろん四角形にも中心がある。
しかし、矩形には複数の基点があってその中心が見えにくい。
黄金比なども一種の中心ともいえる。
中心とは、画面のへそのような存在のことだ。
円はシンプルに「中心」が発見できる。
だから、風景の中にへそを探すと円形写真の構図が決まる。
2015/11/15











「水平・垂直と、重力」



 料理人はたくさんの「作品」を作るが、いつもその場で消費される。50年・60年作り続けても、作品は現物として残らない。
 造形作家はそうはいかない。作品がたまる。かと言って作ったその勢いで壊すこともできない。
 料理は旬が短いが、造形作品の旬は長い。いや、旬が長いというか旬がいつなのか不明である。今かもしれないし10年100年先かもしれない。あるいは、すでに旬が終わっているのかもしれない。怖い話だ。作った自分がいつまでもそのつど守ってやりたいがそうはいかず、いずれ作品は独りで歩いていかなければならない。
 山中先生が他界されてから、作品を時間軸で見る機会を何度か得た。おびただしい数の作品に接していると、逐一それらについて質問したくなる。山中嘉一という作家を本人の解説で辿りたいが、今となっては叶わない。残念だ。
 個展の3ヶ月前には作品は完成していて、綿密な展示計画まできちんと立てている。そういう人だった。版画等の作品管理にしても丁寧に分類されどこに何があり、何がどれだけ残っているかというようなことまで整理できる几帳面で神経質な作家だった。
 そんな性格が絵になるわけでもないが、作品の中には水平・垂直の狂いのないストイックな構図が多く用いられる。矩形が生み出す天地感覚から生まれる「重力」感も作品の特徴ではないだろうか。矩形のなかの水平・垂直が生む空間のなかで、身体に重力を感じながら制作を続ける・・・、そういういわば触覚的な作家だったと僕は思っている。
 晩年、杖をついて歩かれる先生と駅までご一緒したことがある。歩きながら「杖をつくと道路のカマボコ形がよくわかる」とおっしゃったことを思い出す。杖の長さと身体、水平・垂直の感覚が道路の曲面を察知させたのである。
取るに足らないそんなことを、山中嘉一の絵画空間とダブらせながら思い出した。
2015/11/23












矩形




まわりを見わたすと、窓・雑誌や新聞・映画・絵画・パソコンや携帯電話のモニターなど、さまざまな四角い世界が人為的に存在する。このような四角い形を矩形というが、矩形で対象をとらえると「余白」という概念が生まれることも面白い。余白とは矩形から生まれる副産物なのだ。だからたとえば広大な海と空だけの風景を肉眼で眺める時に「余白がいっぱいだ」とは言わない。
四角い世界には四つの辺と角があって、これらが目の前の風景と交わり四角い世界が生まれる。これを絵画とか写真とか映像と呼ぶなら、おそらくこの四角い世界を積極的に意識して風景を見ることが対象をとらえる一つの姿勢となるだろう。
かねてより写真作品の物質性について興味を持っている。通常、写真イメージは支持体の上に繰り広げられるが、支持体は質感や量感・重さを持ち、双方の絡みによって写真は眺められる仕掛けになっている。しかし、イメージを定着する支持体の物質感が前に出れば出るほど「余白」の概念が消えていく。そして単なる物質としての矩形となると、余白という概念は完全に消えてなくなってしまうのが不思議だ。余白はイメージ世界に属するものらしい。
2015/09/12










複写装置


複写のレンズキットを中古ショップで買った。
フィルムを複写するための装置(スライドコピア)である。
組み合わせでブローニーサイズまで対応できるようだが、僕の買ったものは8ミリ・16ミリフィルム用だった。







問・答で商品説明が進められている。
この手の文章としてはすっきりしない書き方が面白い。
文中に「一般市場で販売されている観光案内のスライドやオリンピックの競技の主なものをセット販売されたもの、その他行事のスライド、旅行などで自分で写されたスライドなど全て複写できます。」とある。
「オリンピック」とはおそらく東京オリンピック(1964年)のことだろう。
おそらくオリンピック直後に発売されたものだと思われる。



時代感が伝わってくる。



ちなみに本体は美しい状態で、使用感もなくレンズはきれいだ。



一部部品を取り外し、ミラーレスカメラに装着できるように改造してみた。
これで「超」近接撮影ができる。



ボールペンの先を撮ってみた。
極度に浅い被写界深度を求めて「接写」を考えてみたが、拡大写真は別の意味合いを誘発してしまう。
日常生活とは違う別の世界がそこに写っている。
そのことが意外だった。
眼は肉眼サイズで対象を理解しているのだ。

2015/08/19
















社会の眼





COSMICAR 8.5mmf2.8
COSMICARはPENTAXの工業用レンズのブランドである。
このレンズは室内を監視するために開発された防犯用特殊レンズだ。
先日中古ショップで購入した。
何よりもこの形が特殊で面白く興奮して迷わず買った。
安かった。
なぜか像は4×5カメラのように倒立する。
おもしろがって持ち歩いていたら、友人に「気を付けろ」と言われた。
なんでも いでたちが怪し過ぎるらしい。
職務質問レベルだそうだ。
要するに盗撮カメラに間違われるらしい。
自分にはもとからそんな邪念は毛頭なかったが、言われてみたらそうかもしれないと思った。
でも、そんな理由で持ち歩けないのはなにか理不尽である。
ちなみに写りはこのように円形フォーマットだ。
最近の僕の写真にぴったりのレンズだが、色収差がひどく白黒で撮ることにした。





2015/07/18









繰り返される





今年初のセミの抜け殻を見つけ、写真に撮ってみた。
それから二三日が過ぎたらもう蝉時雨を聞くことになった。
幼虫は地中で過ごす。
5年とも7年とも言われているが、成虫になったら一週間で死ぬそうだ。
実はこの一週間説も曖昧で、最近の調べでは3週間くらいは生きると言われている。
いずれにしても地上での生は短いということだ。
蝉の声がし始めると、なにかが始まる気持ちになる。
これは不思議なもので、ヒグラシの季節になるとなにかが終わる気持ちになる。
なにかが・・・、単純にセミの季節が「始まり」その活動期間が「終わる」だけのことだけれど。
季節も命も繰り返し訪れ、消え、また始まり、終わる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。

2015/07/14










わかりやすいこと

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「わかりやすい文章のために」という本多勝一氏の本はずいぶん以前に買った。
1981年に刊行されているからもう34年も前の本になる。
一度読みかけて挫折した本だが、34年後今回はこれを非常に面白く読んだ。
実は同じ頃「日本語の作文技術」という同じく本多氏の著作を読んで感銘を受けた経由が私にはある。
それなのにこの本を読み切ることできなかったのはなぜだろう。
今思うと不思議だ。

「日本語の作文技術」はとても面白くて、当時自分のやっていた造形美術についての教科書にもなった。
一言で言うなら「句読点」についての明解な原理を知った。
点のあるなしで意味が全く変わってしまうような「非常に大事な点」について考えることは禁欲的な制作を目指していた僕には興味深かったのだ。
句読点や文章構造について考えながらあらためて綴り方の面白さを再確認している。

また、文章は「書くこと」がないと書けない。
なにを書くかが決まっていないと書くことができない。
やんわりとでも、感覚的ななにかを確かめていないと文章にならないのだ。
絵(のようなもの)は、描くものが無くても出来上がる。
そこは不思議というか怖いというか、これでいいのかとも思うが、美術の世界は文章とは違う成り立ちがあるようだ。
そこが面白い。

2015/07/11











全てを並べられることの怖さ

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国立国際美術館の高松次郎「制作の軌跡」を見た。
高松次郎の活躍した時代は、僕自身が美術についてまじめに取り組もうとしていた時期に重なるので、いつもリアルタイムに彼の仕事を感じ、注意深く興味を持って観察していたように思う 。
とはいうものの、実際は印刷媒体によって知り、想像力によって作品をイメージしていたのだけれど 。
高松次郎の仕事は、美術館の常設展で見ることはあってもまとめて関西で紹介されることがなかった。

今回の展覧会は「制作の軌跡」として、ひとりの作家としての流れを鳥瞰する展覧会になっていたのだが、実は僕は見終わってからもの足りなさを感じていた。
なにか、見た目は美しいけれどうまみを感じられないそこそこおいしい料理をだらだらと食べた時の虚しさ、というものがあるとしたら、こんな感じかもしれない。
意外だった。
そのことがいかにも残念で、寂しく感じられる。
高松のダシというかコクというか、匂いというか・・・そんなものが感じられないことへの物足りなさである。
あの時代の、僕が見ていた高松次郎が見えてこないのである。
時代が変わり自分が歳をとったせいかもしれない。
変わったのは自分で、高松次郎は何も変わっていないのだから。

「この七つの文字」は秀作だと思う。
そんな作品が他にも何点かあったが、あんがい厳選したいくつかの作品を少しだけ見た方がよかった。
作品の全てを並べられることの怖さを思わないではない。

2015/06/29









わかる・わからない・おもしろい・おもしろくない

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自分が面白いと思うことを他人が同じように面白がってはくれない。
まったく無関心な反応をされることもある。
少しは面白がってくれることもあるだろうが、自分の面白さが彼のそれと同じかどうか怪しく思う。

「おいしい料理」といわれるものがここにあって、それを皆で食べたらみんながおいしいというだろうか。
その辺も怪しい。
厳選された材料を使ったプロの味は、その辺の安売りスーパーで買って素人が作るものとでは同じ料理でも違うはずだ。
いや、厳選された材料を素人が扱っても、その辺の安売りスーパーで買った材料をプロが使っても、やはり違うだろう。
おいしい味はどうやって生まれるのか・・・。

自分に関して言うと、カップラーメンをおいしいと思わなくなって久しい。
若い頃、特に十代の頃はこんなおいしいものがあるのかと思うほどおいしかった。
胃もたれすらなかったが、今は食後が不快になる。
舌が肥えたというか、肉体が弱くなったというか。
「自然に近いもの」に好みが移ってきたのだと思う。
肉体が自然に帰りたがっているからだ。
いつの間にか自分はそういう年齢だ。

20代の頃、汗を流す仕事の帰りに豆腐一丁と缶ビール一本を買って路上で食した。
夏の暑い日だった。
あの味が忘れられない。
豆腐にしょうゆもネギもかけずにかじりつきビールを飲んだ。
あれは料理とは言わないが最高においしいと思った。

わかる・おもしろい作品は、厳選された材料をプロが作ったものだ。
いや、案外インスタントラーメンのようなものかもしれない。
わからない・おもしろい作品は、絶食後に食べる異国・異文化のおいしい料理だ。
わかる・おもしろくない作品は、愛のない家庭料理のようなものだろう。
じゃあ、わからない・おもしろくないと感じられる作品は、どんなものなのだろうか。
ただ冷えただけの豆腐を丸かじりするようなものかもしれない。
自分はおいしいと思うが他人は理解しない。
あるいは、匂いを嗅いだなれ寿司を初めて食べる時のアバンギャルドな舌の気分のような気もする。

2015/05/27






父の時計

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小津安二郎の「東京物語」では原節子扮する紀子が、義母の遺品である懐中時計を義父から形見にもらう場面がある。
この映画が撮られた1953年は、時計はまだ高価なもので形見分けのアイテムとして立派に存在していた。

先日は昨年5月4日に亡くなった父の一周忌だった。
僕は母から父の遺品の腕時計をもらった。

父の時計はALBAだった。
ALBAでは東京物語のようなシチュエーションを演出できないが、自分にとっては父を身近に感じる立派な形見である。
そして、まだ動いていた。
父は亡くなったが、一緒に生活していたこの時計は、父の時間をそのまま受け継いでそのまま動いている。
心臓がまだ動いているような、父のぬくもりを感じて切なくなる。
2015/05/07


昨日、引き出しの時計を見たら秒針がとまっていた。
6時45分12秒。
何日の午前か午後かは判明しない。
父が本当に逝ってしまったと思った。
2015/06/13




百合の花

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切り花にも寿命がある。
百合の花ほどその終わりの壮絶さを感じさせる花はないのではなかろうか。
急激に生命感を失う。
そこが怖いと近ごろ思う。

2015年3月17日







風景を見る

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矩形の広がりには限りがある。
絵で言うと目の前に広がるありさまを四角い画面に延々と描き連ねることができない。
はみ出てしまうから。
だから、最初からはみ出ることを意識して「どうはみ出させるか」を考える。

写真もそうだ。
四角いフレームの中しか映像は映らない。
そういう点では写真は絵画と似ている。

しかし、立体の表面は少し違う。
例えば石膏で作った人体に、その表面の皮膚の様子を描き込んでいくとしよう。
人体の形をした立体キャンバスに、人体を描くのである
描くという行為は絵画の所作に似ているが、これははみ出ることがない。

球体に・・・例えば風景画を描くにはどうしたら良いだろう。
それは地球儀のように地球の表面を描くことになるのだろうか。
表面を描く・・・この場合、自分の視線は引力の向かう方向に向いている。
中心に向かう視線。

球体に風景を描く視線は、それとも違う。
たぶん球体の内部に入ってその裏側からあらゆる角度で世界を見つめるようなことになるだろう。
僕たちには大きな球体のキャンバスが必要になる。

いや、そうかな・・・。

2015/03/08







ファインダーの垂直軸

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建物が傾いている。
そのように見えるが、実際は向こうに見える電柱が傾いていた。
ファインダーの垂直軸を電柱に合わせたら、電柱がまっすぐ立って建物が傾いた。

自分たちは地球の表面に対して垂直に立っている。
それが一番安定感があるからだ。
おそらく眼にもそれが良い。
水平垂直をきちんとやると視覚が落ちつく。
この写真の場合電柱のみが「しっかり立っている」ように見える。

2015/01/01

















2014年









自分の場所

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修理してある。
盆栽の時に使う太いアルミの針金が把手になっている。
青い絶縁テープで仕上げたこのはさみは、父が残した仕事の一つだ。
とりあえず使えるようにと、高齢の父が直した。
なんでも工夫して一から作るような、ずいぶん器用な人だったが、晩年は「とりあえず」のような仕上げをしていた。
視力と根気がもう底をついてしまったのだろう。
でも、モノへの関わり方のエッセンスのようなものがこんなところにもあらわになっている気がする。
自分は作品を作ることをこれまで続けてきたが、この父の仕事を見るとき、来たるべき場所を見る気がする。
つまり、もっと素になっていくことだ。
余計なものから解放されて、手や眼の振動が形になるようなものを作ることになるだろう。
年齢相応・体力知力の立ち位置を探さないといけないと思う。

2014年12月31日








触覚と地図

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『イメージと意味の本』アートフィルム社 より

イヌイットの地図だそうだ。
触る地図。
手袋の中に入れ触ることで海岸線の形などを読み取るようだ。
まるで大地に触れるような感覚が想像できて面白い。
粘土を使って、立体的にデッサンする(塑像を作る)ような感覚に近いのではないか・・・。

2014/12/26









偶然

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iPhoneを見たら、その時刻がぞろ目の数字や自分の誕生日1128(11月28日)だったりして驚く。
同じ数字が並んだことぐらいどうということでも無いが、たびたび続くと「あれ」っと思う。
偶然は不思議だ。
出そうと思ってでるものでもなく、ましてその時刻を見計らってスマホを取り出すわけでもない。
数字が並ぶと、特別な意味合いを感じて本人だけが楽しい。
これを他人に見せても何も面白くもないだろう。
他人は「どうせ意図的に数字を合わせたのだろう」と推測するのがオチだ。
結局この数字遊びは、他人には伝わらない自分だけの遊びだということだ。
この種の楽しみはおそらく「表現」できるものではない。
伝わらない。
ただ、他人が自分と同じ体験をした時そのおもしろみが共有できる。
しかし、個人の体験は他人のそれと同じものだとは限らない。
感覚の共有なんて可能なのだろうか。
ただ似ているだけなのかもしれない。

2014/12/25







モノサシ

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プラスチックのモノサシは温度で伸びる。
湿度ではどうなんだろう。
B1サイズ(728×1030mm)のケント紙を水に濡らすと、なんと2-3センチは伸びる。
この、伸びる性質を利用してパネルの水張りなんかをするのだが、紙の規格は湿度何パーセントのときのものなのだろう。
モノサシは伸びるし紙も伸びる。
相手もこちらも伸縮率が違うというわけだ。
以前、パソコンで何センチ何ミリかの精密な図形をかいて、レーザプリンタで出力したら、印刷物に1mmくらいの狂いが生じた。
このことをメーカーに問い合わせたら、レーザプリンタの熱で紙が伸びるのではないかとの答があった。
熱でものが伸びることは知っていたが、コンピュータの数字が簡単に裏切られる現実に驚いた。
こんな場合「正確にすること」の意味はどこにあるのだろう。
現実世界の「正確な長さ」とはなんなのだろう。

2014/12/07









マザーリーフ

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マザーリーフは、落ちた葉っぱから新たな芽を出し、もう一人の自分を形成する。
彼女に人格があったとしたら、この場合、新たに生まれた肉体は自分自身なのか、形の似た他者なのか。
命はここで二分されたのか、あるいは新たな命が生まれたのか。
まったく同じ遺伝子を持つマザーリーフだから、傍目にはまったく同じ種目に分類されるだろう。
しかし、同じとは言っても大きさや枝振りまでまったく一緒ではない。
生える場所も根の張り方も違うのである。
この場合、同じマザーリーフが2本あると言うよりは、全く違う形の植物が2本あるととらえる考え方を選択したい。

2014/11/08










トマソンから

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「超芸術トマソン」という概念は、美術史に残る大きな発見だと思っています。
印象派や立体派なんかに肩を並べる、いやそれ以上の発見だと僕は思います。

先日、トマソンとは違う構造の建造物見つけました。
これは僕が赤瀬川さんに見て欲かった唯一の「物件」です。
そのチャンスが無くなって、とても残念に思っています・・・。

面識はありませんでしたが、いつも身近に感じていました。
赤瀬川さんのご冥福を祈ります。

2014/10/29











小ガラス

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カメラ(SIGMA dp2)をコンクリート上に落下させた。
こうした失敗はこれまでにも何回かあって、その瞬間を今でも一つ一つ思い出す。
「覆水盆に返らず」
「後悔先に立たず」
カメラは凹み傷がついた。
先日届いたばかりのファインダーは光学ガラスが割れてヒビが入った。
その様子は美しいが、これは美術作品ではない。

2014/10/05












写真をプリントすること

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[W] という形に折られた印刷物

「現像」あるいは「印画」という言葉は、像が眼に見える形になるための細工のことである。
写真はなんらかの支持体の上に定着(あるいは投影)されることではじめて見ることができる。
ダゲレオタイプは銅板の上に、ゼラチンシルバープリントは紙の上に、スライド写真は壁面にというように必ず支持体を必要とする。
モニターやテレビも、液晶という平面物体の光で写真イメージとして現れる。

印刷について思うことがある。
「印刷」と「写真」は綿密な関係を持っているにかかわらず、写真の現像方法として考えられることが無かったのではないか。
そのことを最近興味深く思っている。
印刷を写真現像の一技法なのだととらえ直すことで、もう少し写真について興味を深くできそうな気がする。

2014/09/13













痕跡

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石ころだ。
表面が削って整えてある。
本来どんな形をしていたのか知らないが、河原の石ころのように丸い。
グラインダーのようなもので荒く削ってこの形になっている。
ずいぶん前に、この石を父からもらった。
盆栽や盆石が趣味だった父がこの石を削ったのだ。
富士山の石だと言っていた。
真偽のほどはわからないが、そういう「珍しい」ものが好きで、父は手を加えて愛でた。
荒削りのこの石が、完成した状態なのかどうか・・・それを聞くことがもうできない。
ぴかぴかに磨くつもりだったのか、このままで良かったのか。
荒い削り痕は、父の手の痕跡を残している。
傷が残らないつるつるな表面になっていない分だけ、僕はこの石に父を感じる。
形は良い。
父は小さな石の彫刻を残した。

2014/09/06












大体

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『「生命の気配」あるいは毛鉤のリアリティについて/舩井裕』(舩井裕回顧展カタログ・アートコートギャラリー2011)を読んだ。
「最新の注意を払って大体を作る。」
そうそう、そうだった。

2014/08/17













フィルムカッター

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ジャンクコーナーでこれを見つけた。
今や知る人は少ないと思う。
長巻のフィルムをカットし、フィルムをカメラに装填しやすくするカーブを作る(切る)カッターだ。
30年ほど前に友人が持っていてうらやましかった。
意外にも30年前の当時でも、もう既に生産を終えて市販されていないものだった。
だから、僕は30年間はさみでいい加減に切ってきたのだ。
今こんな時期に手に入るとは奇遇だ。
それに、昨日ケントメアの長巻を買ったところだったので、なんという偶然か・・・。
500円。
ウソみたいな価格で手に入った。
不必要な人にはゴミでしかないカッターだが、僕には貴重だ。
なんでもない事ながら、こんな小さな出会いが嬉しい。
フィルムで撮る意欲が湧いてくる。

2014/08/04














フィルム

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Kentmere 100 35mm×30.5m (7750円)

このところフィルムでの撮影をサボっていた。
円形フォーマットで撮るミラーレスカメラにハマっていたせいだ。
たいていデジタルカメラとフィルムカメラが僕のリュックには入っていたのに、気付けばデジタルカメラだけになってしまっている。
円形写真を深追いしすぎた。

そんな折、ひょんなことでブローニーフィルムを買うことなり売り場に行ったら、バラ売りしていないという。
種類が減って大幅値上げされた上に5本パックでしか買えないらしい。
これには驚いた。
そして危機感を感じた。

しばらく前から印画紙は現物が店頭に並ばないようになっていたし、今回は引き伸ばし機の陳列コーナーも無くなっている。
いよいよフィルム文化の終焉である。
こんなことがあって、買う予定も無かった35ミリフィルムの「長巻」を買い溜めすることにして、いつも使っているKodakトライX400を求めようとしたら在庫が無い。
そしてこちらも大幅に値上げをしている。
困った。

店員が出してくれたのは Kentmere (ケントメア)の長巻だった。
こちらは1本在庫している。
そしてKodakより安い。
買った。
これを。

Kentmereのフィルムは使ったことがない。
買い置きのトライX長巻がまだ冷蔵庫に3本あるが「賞味期限」も気になってきた。
明日から、フィルムを使おうと思う。
かといって35ミリフルサイズは撮るつもりが無い。
改造型の円形フォーマットか・・・オリンパスペンのハーフサイズだ。

久しぶりにフィルムカメラを持つとずいぶん重く感じられる。
筋力が衰えているせいもあるかもしれない。
それもちょっと悲しい。

2014年8月3日












フィルター

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トリミングできないことが気に入っている。
そして広角レンズである。
広い画角に慣れていない自分には意外と不便なレンズだった。
でも、魅力を感じさせる。
私はこれまで標準レンズか中望遠(80mmくらいまでの)を好んで使ってきたから最初ははかなり違和感があった。
しかし最近六ヶ月以上このカメラを持ち歩き、丸い広角レンズの距離感で対象を見るようになった自分に気付く。
カメラに興味を持って30年ほどモノクロカメラをリュックに入れいろいろなものを撮影した。
その頃は、世界を白黒に置き換えて見る癖がついていたから、ものを見るということはいつもフィルターをかけることなんだと思ったりする。
2014年07月05日(土)











ズレ

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一秒間の軌跡

300×300×300mm
2014

「Ⅰ秒間の軌跡」というタイトルにした。
「最小限の線でできる球体を作ろうと思った。針金の長さが時間の長さのように思える。」と作文で書いた。
そうしたら「Ⅰ秒間でこれ作ったんですか?」と聞いてくる人がいた。
一人ならともかく、複数の人から聞かれて「おやっ」と思った。

2014/06/16










定常波

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作品の「重さ」について思うことがある。それはテーマや内容の重さではなく、物理的な重量のことである。壁に掛かった絵画を取り外すとき、その大きさや質感を裏切らない重量が欲しい。
重いと思って持ち上げてみたら、発泡スチロールのように軽い場合もあるだろうし、軽々と持ち上げられそうな作品が予想に反して極度に重かったりと、感覚のズレに戸惑うこともある。
作品には適度な、それに似合った重量が心地よい。もっともこれは本質的な作品の内容を決定づけることがらではないが、案外大事なことではないかと考えるようになった。
また、作品には波動のようなものがある。空間にものを置くということは、静かな水面に石を投げ入れるようなもので、展示空間はいくつかの波が干渉し合う場所となる。波の方向によっては波形が大きくなったり小さくなったり、あるいはどちらに も移動せず一定の場所で振動する波ができたりする。
その波のことを定常波というが、定常波には「節」とよばれる動かない場所があり、この場所のことを面白いと思っている。大きくうねる波の中に不動の「点」があるのである。
この「点」に着眼したら、作品の位置や大きさ、数量がおのずと決まってくるのではないだろうか。作品の重量も定まるのかもしれない。
2014/04/29









光が写る

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カメラは四角いフォーマットで光を切り取って記録するようにできている。
最近撮っている丸写真は、四角い画面の中に円い映像を写し留めていているものなのだが、
特に強い光はその「丸」から飛び出してしまう。
カメラの物理的な受光部分(画像素子:フィルムカメラのフィルムにあたる部分)に光線漏れをするのだ。
いつもは円く切り取って提示するが、光線漏れの光がなにか暗示に富んでいるように思う。
純粋に「光」が写る感じが特に新鮮に思われた。
2014/04/06










風景写真

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[写真と支持体]
 黎明期の写真が固有の物質感をもって存在していたのに対し、現代の写真は支持体の持つ物質性が希薄である。支持体とイメージの均衡が崩れたのだともいえるし、イメージが支持体の束縛から自由になったと考えることもできるだろう。こうした現象は、様々なメディアがデジタル化してきたことに起因する。
 文字情報にしても、紙に書かれた文字よりもモニターで映し出されるものを読む機会が飛躍的に増えてきた。紙にペンで書かれた手紙とパソコンで送信するメールとの違い。このような物質感と内容について考えている。
 書かれたものを手に持って読み進める場合と、他人に音読してもらって内容を知る場合とでは認識の違いにどのような差異があるのだろうか。読むことと聞くことは明らかに違う情報伝達の仕方ではあるが、書かれた内容を知るという意味では、どちらも目的を果たしていることには違いない。しかし、全く同じように理解されているとは言い難いのはどこに違いがあるのだろう。
 物質は質と量を持っている。だから、常に空間に干渉しながら存在する。それならば、写真も物質感を意識したとき、それ自身が自分の理想とする質感やイメージサイズまでも求めてくるはずだ。いや、そればかりではなく空間の明るさや匂い、気温や湿度までも重要な要因として意識せざるを得なくなるのかもしれない。

[矩形風景]
 作品の「重さ」について思うことがある。それはテーマや内容の重さではなく、物理的な重量のことである。壁に掛かった絵画を取り外すとき、その大きさや質感を裏切らない重量が欲しい。重いと思って持ち上げてみたら、発泡スチロールのように軽い場合もあるだろうし、軽々と持ち上げられそうな作品が予想に反して極度に重かったりと、感覚的なズレに戸惑うこともある。作品には適度な、それに似合った重量が心地よい。もっともこれは本質的な作品の内容を決定づける事柄ではないが、少なくないウエイトで作品を支えている要素であると自分は考えている。
 近代絵画がキャンバスという矩形から抜け出すことができなかったように、写真もまたこの概念から逃れることができなかった。世界最初の写真、ダゲレオタイプは四角い銅板に画像を定着させるものであったし、コダック社のフィルムにおいても、今日のデジタルカメラであってもフォーマットは四角い形なのである。その多くは長方形で、生産性の点から矩形の比率がいくつか試みられてきた。
 矩形風景と題した一連の作品は、対象を捉えるときの「型」としての矩形(四角い形)を常に意識して撮影に臨んだ仕事である。当初はハーフ判の縦型でこの実験を始めたが、現在はこの正方形写真に至っている。縦・横が同じ比率のこの形は、撮影時に縦位置・横位置の選択から自由になれる写真の器でもある。

[重力風景]
 写真という概念はそれ自体でなり立つことができず、いつも「被写体」という他者との関係の中でなり立っている。たとえば青い色面を撮影したとしてもそれは青い色そのものではなく、青い色をしたものの表面(または空間)を写しとったものなのである。写真は「写す」という行為を通過しないとなり立たない。
 ノートや新聞、パソコンのモニター、建物の窓がそうであるように、矩形は横の辺は水平に、縦の辺は垂直になるように認識されるのが普通である。従来、人間の眼は矩形に対してそのような関係を続けてきたのである。したがって、水平垂直の関係を崩す撮影を行うと重力の傾きを感じてしまう。斜めになったファインダーを持つカメラがもしあったとしたら我々はその使いづらさに気がつくはずだ。斜めの矩形は、重力を正常に感じることができず、特殊な知覚を人間に要求するのである。その意味で、矩形はすでにそれ自体が重力を内包している。
 被写体である事物も、当然ながら重力との関係で存在している。この場合は視覚的な要素よりも物理的な関係で否応なく重力に支配されている。 矩形の重力と被写体の重力。この二つの重力に着目し撮影を行ったのが「重力風景」のシリーズである。
 最近丸い形の写真を撮り始めた。焦点距離の短いレンズをデジタルカメラに取り付け、イメージサークルそのままを定着するのである。本来レンズの映し出す映像は円形である。その円形をイメージサークルと言うが、通常写真はこの丸い映像の一部分を四角く切り取っているわけだ。丸い形には水平・垂直がない。
 撮影しながら感じることは、丸いフレームは四角い写真とは異なり、自分の立ち位置が要求されるということだ。つまり、重力に関する水準器(水平垂直に関する)が無いことである。水準器がなくなると、私の身体は疑似水準器を自分の目の中につくる。たぶん肉体が感じている重力がそうさせるのだろう。

2014/03/25










つじつま合わせ

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モルタルが入り口の脇で斜面を作って固められている。
なんの用途なのだろう。
この斜面のために空間の実用性が減少している。
ここで言う実用性とは「ものを置く」ことだ。
その実用性を犠牲にしてわざわざこんな形の造形物を作った意図は何なのだろう。
ものを置かない(置かせない)ための工夫なのだろか。
壁面にこのモルタルを垂れ流したかのような、絵画的な痕跡がある。
つじつま合わせのようなこの組み合わせが気になって写真を撮った。
非実用の無目的は美術に似ている。
その意味で、意図の分からなさもいい感じだ。
2014/03/10







四角い形

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四角い形をした板きれが立てかけてあった。
結構な大きさだ。
地面の煉瓦に傾斜があって、こうやって写真を撮ってもなんだか落ち着かない。
重力をどこかで感じるからだろう。
水平・垂直の関係が崩れると自分はやや不安な気持ちになる。
四角い形も、通常は四つの角が直角な場合が多いので、こうやって平行四辺形がこの中に現れるとどきっとする。
大きめの石の存在も気になる。
特に由緒ある石でもなさそうで、単に大きな石というだけの無用感が眼に残る。
2014/03/02













無用階段

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壁に向かう階段。
所用で兵庫県立美術館に行ってきた。
ちょうど奥田善巳さんの回顧展とポンピドゥー・センター・コレクション展をやっていたので拝見した。
常設作品の展示を含めると結構なボリュームで時間を忘れる。
奥田さんの初期の絵画や林檎の作品など、おおざっぱではあるが彼の平面作品の足跡を回顧することができた。
私はやはり晩年の大きなキャンバスが良いと思う。
林檎をモチーフにした作品などは時代のせいもあるがどこか「とんち」を頼りに作られている。
しかし、晩年の絵画は本当に真っ正面から取り組んで、肉体的にも精神的にも限界まで行ってしまったように感じた。
トアロードギャラリーでも奥田さんの回顧展をやっていることを知り、その足でトアロードに向かう。
移転してから初めて伺った。
だから数十年ぶりになる。
オーナーの石橋さんらしき人がいらっしゃったが、僕の知っているダリのような髭をたくわえた脂ぎった石橋さんではなかった。
僕も数十年前の自分の容姿では無いのだから、なんだか時間軸が歪んでしまう。
黙々と本を読んでおられた。
この空気に神戸を感じる。
以前の空間も独特だったが、新しい場所も個性的だった。
画廊空間自体が階段室なのである。
階段室が展示空間になっている。
トアロードでは奥田さんの紙作品がむき出しで展示されていた。
ああ、神戸に来たな・・・と感じた。
トアロードの階段は天井板に続いていた。
天井に至る直前に倒れたロッキングチェアが置かれていて、さながらバリケードである。
ここで先ほど見てきた安藤忠雄建築(兵庫県立美術館)の「無用階段」を思い出す。
安藤さんの階段も出口の無い壁に向かって伸びていた。
トアロード階段は天井に向かい、その直前を椅子が邪魔する。
ここで言う「無用階段」という言葉は赤瀬川原平さんのトマソンからの引用だ。
2014/02/22

天井板に続く階段。

コレヨリ上・・・
















緻密

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「空を飛ぶ」215×215×15mm ゼラチンシルバープリント・パネル・鉄フレーム 2013

アンドレアス・グレンスキー展(国立国際美術館)をみてきた。
巨大でシャープなピントの写真だった。
直線が正確に直線として写っていたり、画面の構成がシンプルで惹かれた。
かつて、8×10で撮ったアンセルアダムスのヨセミテ写真について知ったときの、
木の葉に動く蟻の一匹をも写しとめているだろうという画面の精緻さについて思い出した。
大きく引き伸ばしたときに、自然の中でうごめく様々動植物が完璧に写し取られているだろうと想像させる写真についてである。
グレンスキーの写真は、それを可能にしているのではないかと思った。
しかし、近くに寄るとやはり粒子(ピクセル)レベルで、通常の写真と変わらなかった。
そのことが意外だった。
あの大作の一部をハガキくらいの大きさに切り取ったとしたら、なんだ普通の写真じゃないか・・・と思うはずだ。
想像を超えるサイズが錯覚を生む。
結像の精度としては、あの大きさほど精緻ではない。

そこで、改めて「引き縮め」写真について考え始める。
極限の緻密さを想像して、ネガを縮小印画することを試みたときの自分の作品のことだ。
グレンスキーの写真が、例えば「引き縮め」写真の粒子でプリントできたとき、彼の写真は本当に完璧になるのだろう。
そのすばらしさを見てみたいと思う。
制作環境での技術的な進歩が求められる。
展覧会を見終えてから、小さな写真の近視眼的なアナログ実験を再びやってみようと思った。

2014/02/02








2兎を追う

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このところデジタルカメラで、しかもまるいファインダーをのぞいてばかりいる。
そうしたら円形ファインダーで対象を捕らえる眼になっていることに気付く。
まるい形を想定し、円く切り取ったらどうなるのだろうと考えてしまうのである。

たまには四角い写真も撮りたくなって、カメラを二台バッグに入れて出かけた。
しかし、使うのは円い方だけだった。
いつのまにか、眼が円いもの仕様になっている。

白黒フィルムを入れたときは、白黒写真を想定して撮影するし、
カラーフィルムを入れたらカラー効果を意識して撮る。
そのことと同じだなあと思った。

あるいは、様々な撮影シーンを想定し幾本かのレンズを持参しても、
結局使うのは一本だった・・・というようなこともある。

道具を2つ持っていても頭の切り替えができない。
案外、単機能の道具を1つ持つことのほうが効果的に目的を果たすことになるのかもしれないと思った。

2014/01/29











正方形・円

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壊れたカーブミラーがあった。
正方形と円形とで撮り較べてみた。
2014/01/20





直角をなぞる

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壁面の直角コーナーに設置する作品をつくった。
直角であればどこでもこの角度で取り付けられる。
鉄線が、直角を触覚的になぞるイメージだ。
2014/01/19






四角と丸

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丸い写真は「覗いた」ように感じる。
四角い写真は「切り取る」ように見える。
円形ファインダーで風景を撮るようになってから気付いたことだ。
四角いときは水平・垂直の関係に注意してしまうし、円の時は曲線ばかり追ってしまう。
ファインダーの形は対象を切り取る「型」なのだ。
あるいは「器」といって良いかもしれない。
まるい器では四角の、四角い器では丸のエッセンスがこぼれ落ちる。

2014/01/14





重さと触覚

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色面を包む四角形 413×310×25mm 鏡にウレタン塗料 2013

見た目が軽そうなのに、意に反して重かったり、
とても重そうなのに発泡スチロールを持ち上げたときのように軽かったり・・・、
そういうアンバランスさには驚かされるが、気持ちは良くない。
生活用品にはそういうところが重要で、触覚と重量へのこだわりが大事だと思う。
それは美術品についても大事な要素である。
触ったり持ち上げたときの感触のことである。
額装された版画・絵画・彫刻も、気持ちの良い重さが必要だ。
最近このことに興味を持ち始めている。

2014/01/09

林檎のかたち

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林檎・B  ガム印画 600×600mm 2013

かたちの崩れたリンゴを見つけた。
岸田劉生の麗子像みたいな歪み方だ。
写真を撮って気がついたが、妙に修正くさく感じる。
デジタル写真とPhotoshopを使うようになってこんな感覚が身についたように思う。

2014/01/03





タイプ55

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相似形静物・B ガム印画 100×130mm 2013

相似形静物・B 木・瓢箪 530×530×270mm 2013

ポラロイド社のタイプ55フィルムで撮ってガム印画法でプリントした。
このフィルムは4×5サイズで白黒ネガとポジとが両方同時に撮れるものだ。
しかし、今は製造中止となって久しい。もう使っている人はだれもいないはずだ。
これは大事に保存していた期限切れフィルムで撮影したひょうたんの写真である。
期限切れなのに意外にもちゃんと撮れた。これはもしかしたら人類最後のタイプ55での写真かもしれない。
しかもガム印画だ。
このネガとガム印画の組み合わせで、かつていくつもの作品を作ったことがある。
後日、写真で撮ったひょうたんと相似形の二個を偶然見つけ、種を抜いてみた。
こうして並べると写真の被写体のように見えるが実は、ひょうたんという「型」が写っているだけだった。

2014/01/02









コメント(日下部 一司個展/Oギャラリーeyes)

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重力を見つめる  鉄・ブリキのコップ・銅 330×330×150mm 2013

 古い作品に手を加え、いま新たな視線で眺めてみたいとかねてより思ってきた。ところが、思っただけで実際はきちんとやっていない。変化の可能性を感じるものが無いこともあるけれど、手を加えようにもシステムとして閉じてしまった作品も多いからだ。たとえば版画作品などは刷り終えた段階でもう手がつけられない。写真作品もそうだ。出発の地点でもう今の自分の居場所と違うものもある。それでもあきらめられずに、新作を作るときにはいつも「古い作品に手を加える」ことを考えてしまう。
 欠けた茶碗を継ぐと、もとの茶碗とは違った美しさを感じさせるものに変化する。実用品の持つ特異な性質だと思う。工芸品の強さはたぶんこのように変化しながら新たな価値観を生み出す点だと思う。面白いと思う。道具としての機能は損なわないが、その存在感がまったく別のものになってしまうことが面白いのである。
 自分の持っているくせのようなものだと思う。ある基本の型を意識し、それを少しいじるのである。「型」とは、ものの形であり、重さと触覚であり、考え方であり、所作であり、時間経過の様子だと思っている。そのことに改めて注目しいくつかの作品を用意してみた。

2014/01/01













2013年

イメージサークル

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カメラのとらえる映像は本来円形をしている。
イメージサークルという。
この丸い映像の中央部分を四角く切り取るのが「写真」なのだ。
極度に焦点距離の短いレンズをつけて撮影すると、こんなふうに丸い写真になる。
イメージサークルの全てがここにとらえられる。
これが本当のノートリミングなのかもしれない。
加工されない素材のままの映像を見るようだ。
空を撮ると世界の全てが映るような贅沢な気分になる。
2013/12/05






写真と重力

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ノートや新聞・パソコンのモニター・建物の窓など、多くの場合対象を四角い(4つの角が直角の)形で切り取って見る。
不規則な菱形のファインダーを持つカメラがもしあったとしたら、きっとその使いづらさに気がつくはずだ。
斜めの矩形は特殊な知覚を人間に要求するのである。
おそらく、身体の感じる重力と、菱形のファインダーの持つ重力がずれていることから生じる違和感のためだ。
そのため、水平線・垂直線で形作られる四角形は最も視覚的に安心できる形なのだ。
このように矩形はすでにそれ自体が重力を内包しているのだとも言えよう。
被写体である事物も、当然ながら重力との関係で存在している。
この場合は視覚的な要素よりも物理的な力の関係で否応なく重力に支配されている。

最近、丸いファインダーで撮影を始めた。
つまり小さなイメージサークルのレンズで撮影するわけであるが、丸い形には水平垂直がない。
イメージサークルの写真では四角い写真とは異なる自分の立ち位置が意識されるのだ。
とはいえ、水平・垂直の感覚からは逃れることができず、それを常に意識してしまう。
たぶん肉体が感じている重力がそうさせるのだと思う。
写真による円形フォーマットは、どのような重力を表現するのだろう。

2013/12/02






杖と道路

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杖をついて道路を歩くと、道路のかまぼこ状の曲面がよくわかる。
山中嘉一先生と少しの道のりを一緒に歩いたことがある。
その時先生がおっしゃった言葉である。
彼は杖をついていて、歩きながらつぶやいた。
何の文脈もないこの言葉が面白かった。
僕はこんな視点に弱い。

先日、山中嘉一展が堺市の画廊であって、初日に行ってきた。
一時のオップアート的な彼のシルクスクリーンの作品が僕は好きなのだが、最近は絵筆をとって絵画を描いていらっしゃった。
今回の個展もそんな絵であった。
少し立ち話をしておいとましたが、画廊から出てすぐに山中嘉一の絵のような風景を見つけた。
壁と窓の風景だ。
この写真を、先生にプリントして送ろうと思っていた。
しかし、山中嘉一はこの10日に亡くなってしまった。
亡くなったことが一番残念だが、この写真を見てもらえなかったことも残念だ。
ピントの甘いヒドイ写真だが、どんな反応をされたのだろう。
悪ふざけをどのように返してくれたのだろう。

2013/11/15










輪郭について

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例えば壷の輪郭だけにピントが合って、
それ以外は完璧にぼけているような極度に被写界深度が浅い写真が撮りたい。
先日、マスキングテープを使ってドローイングをした。
ちぎって貼り、ちぎって貼りという感じで水平にテープを這わせながら絵を描く。
図と地の関係があらわになるように、形と背景をテープで色分けした。
そうしたら、テープの隙間に白い線ができた。
この部分が、この壷の輪郭線のように見えていい感じだ。

2013年11月1日








現像する

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develop・A  565×765mm  紙にシルクスクリーン現像 2012

フィルムに当たった光の痕跡を、目に見えるように処理することを「フィルム現像」という。
フィルムを複写して紙に焼き付ける作業を「引き伸ばし」などとも言うが、内容は「印画紙現像」と言うべきだろう。
要するに、目に見えなかった像を目に見えるようにすることだ。
ずいぶん長い間このやり方で写真に親しんできたけれど、フィルムも印画紙も流行らなくなった。
いまはもうデジタルの時代なのだ。

デジタル写真の現像の場としてふさわしいのは「モニター」である。
カメラのモニターや、パソコン・スマホのモニター画面がすなわち現像の場所だ。
デジタル写真をプリンターで出力する方法も現像には違いないが、従来の銀塩写真のスタイルをまねた偽物印画のように感じてしまう・・・僕は。
だから、作品として人前に出すときにはプリンター出力という方法を好んで選ぶことができない。
デジタルにはデジタルの現像の仕方があるはずだと思ってしまうのである。
その一番は、やはり「モニターで見る」というやり方だろう。

しかし、最近そのほかの現像方法を思いついて試みている。
それは、シルクスクリーンによる「シルクスクリーン現像」である。
なんだ、それはシルクスクリーンの写真製版じゃないかとも言われるだろうが、ここは「シルクスクリーン現像」という意識で制作することが大事である。
写真の一技法として「シルクスクリーン現像」があるのだ・・・というふうに。
決して版画の技法ではない。

モニターで見る写真には触覚性がない。
それは支持体としての紙を媒体としないからだ。
そこで「シルクスクリーン現像」が浮かび上がる。
写真印刷物は、デジタル写真にとって死角とも言うべ最良の現像場所ではないか・・・というのが最近僕が思うことである。
いわば、「印刷現像」という分野が可能になるはずだと考えるのである。
オフセット印刷で平版印刷するのもいいと思う。
それを近頃試みようとしている。

2013/10/06








平らな硯

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左・硯   左・硯箱の蓋

欲しいと思う。
そう思えるモノはすばらしい。
中国の古い硯箱を見た。
老松町の古美術店。
欲しい。
しかし、高かった。
相当がんばれば買えない値段ではないけれど・・・二桁違った。
こういう作品がつくりたいと思う。

硯は、水を入れるための凹んだ部分があるのが普通なのにこれには無い。
平らな硯石が黒い平面絵画のように横たわっているのだ。
必要な分水を垂らし、必要な墨を要る分だけ磨る。
その行為を想像するだけで気持ちが良い。
蓋を取ると真っ平らな硯石が横たわる・・・。
何よりそのたたずまいが良い。
本当に美しい。
2013/09/18





残る

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料理人はたくさんの「作品」を作るが、いつもその場で消費される。
50年・60年作り続けても、作品は現物として残らない。
改めて考えてみたら潔いことだと思う。

造形作家は、そうはいかない。
作品がたまる。
たまるから壊して捨てたらいいのだけれど、作ったその勢いで壊すことができない。
料理は旬が短いが、造形作品の旬は長い。
少なくとも、本人は「長い」と思っているからややこしくなるのだ。

20年近く前からこれまで、ことあるごとに預かってもらっていたギャラリーから作品がまとめて送り返されてきた。
画廊移転の機に倉庫を整理したいということだった。
画廊も大変だ。
売れるアテのない在庫を抱えていたら、ゴミ屋敷のように足の踏み場もない状態になってしまう。
だから、ここはひとまず作者に返すことになる。

自分でも存在を忘れていた作品もある。
古い記憶がそこでかすかにピカッと光って消える。
制作中には興奮して作ったものが、いま見るとなぜこんなに色あせるのだろう。

半年ほど前、バブルの時代に何点か買って頂いた人から電話があった。
所蔵していた実家を取り壊すことになって、いろいろ集めた作品を管理することができなくなったということだった。
売ろうにも売れないので、ご本人にお返ししたい。もちろん代金はいりません・・・。
という話だった。
たくさんの作家の作品を所蔵しておられた方だが、いろいろな環境の変化で美術品とつきあうスタイルも変わっていくのだからしょうがない。
作品が目の前にもどったときも今回と同じような虚しさを覚えた。

僕の「痕跡」が目の前にある光景。
作ったのは僕だけれど、処分するのも自分でやらないといけないなあと思う。
他人は手を下しにくい。

ものを持つのは楽しいが、ものがあふれると自由がきかなくなる。
だから作品制作をする場所は、ガランとした無の空間でないといけない。
ものがあふれる空間ではもうモノは制作できないから。
人生もそんなものかもしれない。
過去を思っていたら前に進めない。

もどってきた「作品」の中に「Twin(クサカベ式)」という小さな作品があった。
これは、画廊の企画展で「フレーム」というお題で制作したモノだったと思う。
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[フレーム]
作品名・Twin(クサカベ式)
制作年・2000
サイズ・22×18×2.5cm(×2)※ワイヤー・ドライバー・マット付き
コメント・「シンメトリー」や「対」の関係を面白く思っている。
      造形要素としての「2」は様々な仕掛けを可能にする。
      フレームという制度の中での仕掛けを試みる装置として作った。
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作品の箱の中に、自分で書いたメモが残っていた。
フレームは、これで完結していないで、ここになにかを額装することで完成する。
いわば未完成の完成作品、プロダクトとして存在している。
このあり方が、いまは気持ち良い。
2013/09/16











味音痴

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おもしろ半分に、日本酒と料理についての講座に行ってみた。
三種類の日本酒を比較しながら呑み、シンプルな料理を食べる日本酒の講習会である。

あっさりした料理にはあっさりした日本酒、こってりした料理にはこくのあるお酒、という風に自分は思っていたがそうではなかった。
実際には、酢の物・野菜料理にはあっさりした日本酒があうし、焼牛肉などの濃い料理にはうまみの多い酒があう。
「あ、そうなんや」と、思った。

デザートと一緒に日本酒を呑む人はいないと思うが、この講座では試しに甘いヨーグルトと日本酒をいただく実験をした。
ヨーグルトを食べながら本醸造酒を呑むと、日本酒が清涼飲料水のように軽くさわやかにのどを通る。
そしてうまい。
同じデザートをアテに純米大吟醸酒を呑んだら、苦くてとてもまずかった。
同じ日本酒なのにまるで別物だ。

酒の味を酒だけで飲み比べたりしていた自分がちょっと浅はかに思えた。
酒を引き立てるための料理、料理を美味しく頂くための酒・・・という相互関係について鈍感だったことが浅はかに思えたのである。
こんなことは常識的にわかっていたつもりだったけれど、観念的な理解だった。

ヤスモノの酒も、あいまに口に運ぶ料理によって最高に美味しくなる。
料理によって高価な酒がそれほど美味しくいただけないこともあるということだ。
逆に、酒の選択を間違えたら料理自体も美味しくいただけない。
バランスである。
相性である。
釣り合いである。
味音痴の自分には面白い体験だった。
何ごとも、単独で存在するわけではないという教訓とも感じた。

2013/09/14





印画紙の行方

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能登半島最北のスーパーマーケット

夏に能登を旅した。
道路に看板があって「能登最北のスーパマーケット」と書かれた店に入った。
店内は半分(精肉コーナーなど)使われていない状態で照明も落とされていた。
商品の棚には、「きゅうりのキューちゃん」などが一袋ずつ並んでいる。
商品と商品の間には十分なスキマがあって、さながら高級ブティックの陳列のようだった。

昨日、イルフォードのバライタ印画紙を買おうと思い梅田のヨドバシカメラに行った。
そうしたら、一時は棚一杯に陳列されていた印画紙がなにもない。
代わりに、発泡スチロールパネルに貼られた商品の写真が平置きしてある。
必要な人は棚に設置してある商品カードを持ってレジに進むという購入システムになったようだ。
しかし、問題はそのカードがなくなっている棚が大半だということだ。
要するに「品切れ」で、取り寄せないと購入できないらしい。
暗室で写真をプリントする人口が大幅に減ったためだろう。
大学の写真学部でさえ暗室をつぶしているという話も聞く。
暗室での引き伸ばしが非常に特殊な技法になろうとしている。

この光景を見ながら、能登の最北スーパーの光景がダブった。
フィルムで写真を撮る人の人口の減少、つまり過疎化が進んでいる。
フィルム村の住民としては、ついには廃村にならないかと心配をする。
「写真」についての概念も変わるように思った。
2013/09/12




ようこそ

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起動するとこんな画面が出る。

「おかえりなさい!」

この段階で僕は購入したことを後悔した。

必要と目的があって買ったのだけれど、この文句(デザインもだけれど)が気に入らない。
おかえりなさい・・・そしてびっくりマークである。

そういえば新しくなったillustratorやPhotoshop(CS6)の起動中の画面もひどいデザインだ。
なぜもっと謙虚な存在として現れないのか。

「おかえりなさい」は「ようこそ」という例のウインドウズの起動画面をまねたモノだと思われる。
パソコン起動についての無用な「型」がここに発生している。

「ようこそ」も僕には意味不明な言葉だ。
自分が購入した自分のパソコンに、起動するたびに上から目線で「ようこそ」と言われる不快感から、僕はウインドウズが好きになれない。
どうして自分の手足のように「存在を意識しないで使える道具」としてつきあってくれないのか。
なぜアナタは距離をとろうとするのか。

それにしても「おかえりなさい」とはどういうことだろう。
その神経がわからない。
第一、僕はそこに住んでいない。
道具として使いたいだけだ。

文字を書こうとしたポールペンやノートに「おかえりなさい」と言われるようなものだ。
あるいは、自宅に帰ると家人に「ようこそ」と言われるようなものだ。
語彙感覚が不愉快である。
2013/08/31




金継ぎ

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弁柄の色がどうもなじまないような気がして、金をまぶしてみた。
バランス的にはこの方が落ちつく感じだ。
2013/07/06



修理する

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欠けた古伊万里のそば猪口を買った。
修繕しようと思う。
ベンガラと本漆で金継ぎを試みるが、なかなかうまくいかない。
今回は、直したという感じがはっきりわかる色彩を選んだ。
「修復」ではなく「修理」である。
修理は直す人の趣味と創意工夫が現れる。
2013/06/09





消す

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「ガンヂー インキ消 ボールペン用」を買った。
同じガンヂーのインキ消「万年筆用」を使って重宝しているので、ボールペン用があることを知って取り寄せたのだ。
二本の小瓶に薬液が入っていて、これを塗布することでボールペン文字を消す。

今日では、修正液・修正ペン・修正テープなどが主流でガンヂーのこの手のものは店頭でもまず見かけない。
わたし自身は修正テープも使うが、どうも好きになれない。
間違った文字の上にホワイト修正をして新たに書き加えるという物理的構造が気持ち悪いからだ。
どちらかと言えば、消しゴムのように鉛筆の線を消し去って新たに書くというあり方が好きなのだ。
修正液は、修正・・・と言いながら実は「隠し」ている。
「隠し液」「隠しペン」「隠しテープ」という方が、その本質を表すのかもしれない。

以前、宮沢賢治の肉筆原稿を見る機会があった。
原稿用紙に書かれた原稿は、訂正したい部分に棒線が入り、その横に新たに言葉が書き加えられている。
時には、同じ箇所で何度もこの作業がこなわれ、彼の思考の痕跡を読むことができた。
あれは面白いものだった。
文章という出来上がったものを読むのではなく、非常に映像的な時間の推移が感じられる。
この原稿の場合、「消して」いるわけではない。
修正した部分を「隠さず」残している。
情報を残しながら推敲を行っているのだ。

パソコンで文章を書くことが増えたが、この場合は跡形もなく消えてしまう。
修正部分が完全に消えてしまうのだ。
どの部分を修正(消す)したのかさえもわからない。
文章自体の触覚性が消え、純粋に記号としての文字の特性が表れてくる。

ガンヂーのインク消 は、消した痕跡が残る。
跡形もなく・・・ではなく跡を残しながら消える。
この辺が面白い。
2013/06/01





肉体的特性

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右回りに見えたり、左回りに見えたりする。
動画は一定方向に回転しているのだが、見る側で二通りの真逆な動きを感じるようだ。
面白い。
情報は同じなのに、右回りに見える人と左回りに見える人がいるということだ。

あるテレビ番組で、携帯のシャッター音が聞く人によって「撮ったのかよ」と「エーアイアイ」に聞こえることをとりあげていたらしい。 
自分はその番組を見ていないが、同じ音声が全く違う言葉として認識されることを興味深く思う。
子供には「エーアイアイ」と聞こえ、老人には「撮ったのかよ」と聞こえるとも言う。
わたしには「撮ったのかよ」としか聞こえない。

「モスキート音」というのが話題になったこともある。
老人には聞こえない高音域があるらしい。
若者には聞こえるが老人には聞こえない。
一瞬悔しい気がしたが、若者も老人もそれぞれの音が聞こえるということだから、そこに優劣関係はない。
その辺も面白いと思う。

肉体的な特性がいろいろなものを感じさせる。
感覚とは肉体が感じる触覚的な領域なのだろう。
2013/05/24


Kodak Anastigmat Special f:4.5 100mm

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レンズ収納もできないゴミのようにひどい状態の蛇腹カメラを手にいれた。
生気のないこんなカメラを見たのは初めてである
どんな古いカメラもどこかがまだ呼吸しているものだが、これは違った。
死ぬ・・・とはこういう状態かと思った。
おそらく最後の所有者が、高所から落下させたのだろう。
各所が凹み歪んでいた。
シボ革は剥がれ落ち、レンズもほこりが手垢で固まったような代物だ。
コダックの6×9カメラで、年代はおそらく1940年前後のカメラではないかと思う。
レンズを取り外し清掃したが、細かい傷やカビの痕が残った。
デジタルカメラに取り付け、試しに撮影したらこのコンディションらしいソフトな写真が撮れた。
数十年ぶりによみがえったレンズが見た「この世」の様子である。
2013/05/17





9:16

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ハイビジョン規格で使用されるアスペクト比は16:9である。
人間の視覚は目が二つ横に並んでいるから、縦よりも横に広がるワイド画面の方が自然なのだろう。
デジタルカメラで普通に動画が録れるようになってから、この比率が静止画の場合でも選べるようになった。
最近はこのアスペクト比の画面で縦位置撮影をするのが面白い。
元々は横位置に撮影する目的で作られた規格なのだが、縦にすることで新鮮な構図ができることに気付いたのである。
しかし、考えてみれば掛け軸などの東洋絵画では、縦長の画面を当たり前に使用しているわけで、東洋人である私には特に違和感のない矩形なのだとも思う。
最近まで正方形の画面でものを見る癖がついていたせいもあり、この異様に長い横長画面を他人より新鮮に感じるのかもしれない。
ジョゼフ・スディクはパノラマ写真を多く撮ったが、彼の写真の中にはパノラマサイズを縦に使った写真があり美しい。
一時パノラマ写真が流行った時期があって、あのときも縦位置撮影が面白いと思ったのを今思い出した。
一眼レフのパノラマ改造を試みようかと思い始めている、
2013/05/05






移植手術のような・・・。

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ジャンク状態のBALDAXというカメラを手に入れた。
ボディは錆びつき、蛇腹には穴が開き、オマケにレンズがひどく汚れていたが、クリーニングしたらきれいになった。
この時代のレンズはコーティングが施してなく、少々手荒に扱っても大丈夫な点がありがたい。

Carl Zeiss Jena Tessar 1:3.5 f=70 
70ミリという画角は、自分には珍しい。
デジカメに取り付けてヘリコイド併用・前玉回転式の試写をした。


2013/04/06





無理をする

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光学的には問題があるのだろうが作画上は魅力的な写りをする、というようなレンズに興味を持っている。
古い蛇腹カメラ(焦点距離75ミリ前後)のレンズだけを取り外し、ヘリコイドに取り付け遊んでいる。
おおむねこれらのレンズはテッサー型のレンズ構成である。
このレンズをヘリコイドで伸ばしきってから、さらに前玉部分を先進させると独特の球面収差が現れる。
その描写は甘いものだけれど、昨今のコンピュータで設計された透明感のあるシャープなレンズには無いクセがあって、そこを魅力と感じるわけだ。
もちろん、すべてのレンズが魅力的なレンズに生まれ変わるわけではなく、がっかりする写りになることもある。
やってみないとわからない。
本来のレンズ設計とは違う使い方をするわけなので、当然予想できない写りがここに生まれるわけだ。
2013/04/03




かたち

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かたちの崩れたリンゴを見つけた。
岸田劉生の麗子像みたいな歪み方で、惹かれる。

写真を撮って気がついたが、妙に修正臭い。
デジタル写真を扱うようになってこんな感覚が自然に生まれるようになった。
多分そうだと思う。
写真を見るときの、このワンクッションはどうしたものか。
自分が「デジタル文化に毒された」感じで嫌になる。
写真が信用されなくなって、彼らにはかわいそうな時代になった。
2013年4月1日





ピントの合う奥行き

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リンゴの写真を撮る。
輪郭線だけに合焦していて、他はすべて大きくぼけている。
あるいはそこにある壺の輪郭線だけがカミソリのように際立ち、あとは全部大幅にぼけている。
指でつまんだ縫い針の、先のごくごく一点だけにピントが合って、それ以外はかたちの詳細がわからないほどぼけている。
そんな写真を撮ってみたいと思っている。

空に向けて、レンズから45センチ先の空気にピントを合わせたとしよう。
写真は青い色面が写っているが、実は無色透明のごくごく薄いピントの平面がそこに写っているのだ。
2013/03/06




写るということ

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写真はフィルムで撮るのが一番だと考えていたり、作品制作ならフィルムしかないとも思う。
でも、最近はデジタルの出番も増えた。
私の場合デジタルカメラはプリンタ出力するための記録用、それとパソコン上で見る写真のために使う。
古いレンズ(自分の歳より古い年代のものが多い)にはまってしまい、最近はレンズの癖を見るためにも使う。

通勤が同じ経路なので、同じ場所を何度ともなく撮る。
ここに二枚の写真がある。
同じ場所だけれど、レンズは違う。
カメラも違う。
一枚が比較的シャープで一枚がそうではない。
こうして二枚並べてみると、なぜか柔らかい輪郭の方が好きだ。
もちろん、カチッと仕上がった写真が必要な場合もあるのは知っている。
でも、まあこの場合はやんわりした方がいいな。
写真を始めた頃はキリッとした鮮明さが一番の基準だったのに。
ちょっと大人になった、というか歳をとったというか、そんなことだろう。



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炒り豆を60個食べた。
食べながらのどに詰まらせた。
数えることを、途中で面倒に感じる。
面倒な数の多さ・・・ということが妙に身にしみる。
図にしてみたら「なんだこれだけか」と思った。
人間の存命限界は120歳だという。
どうがんばっても、この○の数の倍の分量しか生きられない。
2013/02/03





見えない大きさ

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ドイツに住むS君から1セントコインが届いた。
コインの中にリンカーン座像があるという話をしたことがあって、律儀に実物を送ってくれたのだ。
1セントコインは直径19ミリ、1円玉よりふたまわりほど小さい。
そこにはリンカーン記念館がデザインされてあって、主役であるリンカーン座像がちゃんと鋳造されているという。
肉眼ではその存在に気がつかないほど小さく、見えにくい。
まずはルーペで確認し、マイクロレンズにエクステンションチューブを2本つけて撮影した。

ルーペを用いないと見えない図像の存在。
「在る」と言うことと「見えない」と言うこと。
無いといけない必然性。
そういうデザイン・図像のことが妙に新鮮に感じられる。
2013/01/02





時代

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最近、古い蛇腹カメラを購入している。
需要がなくなって、格安でオークションで売られていたりするからだ。
蛇腹は革製品であることから、多くは穴が開いてカメラ自体が使い物にならない場合が多い。
そこで、レンズだけを取り出し加工することにした。
うまく工作することで、普通の一眼レフに装着できるようになる。
デジタルカメラにだってつけることができる。
50年も60年も前の風景や人物を見てきたカメラの眼が現代を写す。
その時代の光や空気、湿度やにおいまでもが写りそうな気がする。

2013/01/01









2012年




写真の中の重力

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光を定着し事実を記録するという化学的領域から出発した写真は、絵画のリアリズムと対峙することで変化し始める。ピクトリアリズムという写真の芸術化を促す運動も、振り返れば絵画的な方法論の中で翻弄されたようにも思える。
ピクトリアリズム以降、写真の属性は「記録」と「表現」という二つの項目で語られてきた。写真がデジタル媒体で記録されるようになってから記録性に関しての考え方は柔軟なものになってきたが、その分「表現」としての写真が活力を得てきたのかもしれない。

私にとっての写真は表現でも記録でもないように思う。
でもどちらかと言えば記録に近いかもしれない。
たぶん事物に関する解釈の方法を記憶する手段のように思う。
正確に被写体を写すことではない。

最近、写真の中の重力ということについて考えている。
それは写真の最終形態である四角い形が関わる。
つまり、矩形と対象の絡みの中で重力が可視化される写真についての興味である。
2012/12/31





パンケーキ

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OLYMPUS ボディキャップレンズ 15mm f8.0

レンズ単体で外径に比べて極端に長さが短い、薄いパンケーキのような形状をしているカメラ交換レンズを通称「パンケーキ」と呼ぶ。
総じてこれらのレンズは最短焦点距離が長く、近接撮影には向かない。
構造上、レンズの繰り出し量が足りないからだろう。

オリンパスから出ている「ボディキャップレンズ」というものを見つけ購入した。
これは驚異的に薄い。
しかし、分類は「レンズ」ではない。
あくまで、レンズ機能がついた「ボディキャップ」だという。
本来カメラのボディキャップだが、レンズにもなる・・というコンセプトだそうだ。
こんなに薄くて30cmまで被写体に寄れる。

ボディキャップがレンズになる・・・そういうことが必要な状況が考えにくいので、おそらくこれはオリンパスのお遊び商品だろう。
しかし、そのアイデアは面白いのにもかかわらず、描写力には不満が残る。
iPhoneのレンズとほぼ同じ大きさだが、解像度という点でiPhoneレンズよりかなり劣る。
さりとて、軟焦点特有の面白さもない。
もともとレンズとして開発していないから仕方がないといえるが、ここは光学機器メーカー・オリンパスの意地で、iPhoneより遙かにすぐれた「ボディキャップレンズ」をさりげなく作って欲しかった。
力量があるはずなのに、中途半端なお遊び感が残念だ。
2012/12/27






写真時間

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正方形フォーマットで撮ることが多いせいか、横長の写真が撮りたくなる。
そんな時、ジョセフ・スデックの横長写真を思い浮かべる。

OSが新しくなったiPhoneでパノラマがとれるようになって、これで横長写真を遊んでいる。
左から右へカメラを動かすことで、部分部分をつなぎ合わせながら一枚の写真を作る仕組みらしい。
できあがった写真はごく自然につながっているけれど、現実にはない空間のゆがみが生じる。
人間の目では一度に見ることができない画角で画面を作るからだろう。
そこには時間差がある。
左端画面と右端画面は、違う時間が写っている。
静止画なのに動画的だと思う。

2012/12/25





古新聞

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日本酒を頂戴した。
パッケージからしてレア感が伝わってくる。
古新聞が堂々と使ってある。
よく英字新聞が使われたりするが、なんとこれは日本語新聞である。
かっこいいと思った。
田舎のおばあちゃんが包んでくれた自家製のお酒(あるとしたら)のような暖かみを感じる。

私が幼い頃、お弁当を包む紙が新聞紙だった。
新聞紙におにぎりを直接くるんできた友達もいた。
時代がみんな貧しかったのだ。
これは、その頃の新聞紙ではない。

意表をついた「デザイン」だと思う。
瓶の口を緑色の輪ゴムでとめてあるが、これも賛否両論分かれるところだろう。

2012/12/24






消す

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久しぶりに万年筆を使った。
そして気付いたのは、文字をよく間違えるようになったことである。
キーボードを使うようになってからそれはひどくなったように思う

書きまちがえた文字を消すのには、いつも白い修正ペンを使っているが、「万年筆インキ用・インキ消し」を持っていたことを思いだした。
透明瓶入りの二液をガラス棒で塗るタイプで、ずいぶん昔からある万年筆用の「消しゴム」だ。
赤と透明の液体がセットになっている。
パッケージに「1赤液→2白液→3赤液」と書かれてあり、この順で文字に塗布するとインクが完全に消える。
それが気持ちよい。
消すことの意味を改めて考えさせられた。
修正ペンは上から間違った文字を「隠す」が、インキ消しの場合は「消す」のである。

しかし、思えばパソコンモニター上の文字も「消す」ことができる。
こちらは本当に完璧に消えるのだが、これまで「消す」という感覚がなかった。
deleteキーを押すときは「校正」する感覚に近い。
そのことを面白いと思う。

2012/12/23





写る

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MIROSLAV TICHY という人の写真集を買った。
ピンぼけの上、プリントクオリティも低い。
図版を見ると、傷がついたり変色もしているようだ。
しかし、なぜか心に残る。
おそらく写真内容のせいではない。
写真が、ぎりぎりなところで映像として成り立っているありさまが自分には気になるのだと思う。

彼のカメラも載っていた。
これはもう石器時代の「道具」のようである。
カメラは道具だったのだ、という当たり前のことを再認識させられる。
同時に、写ることについての原初的な興奮がわき起こってくる。
2012/12/02




「水木さん」

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漫画家、水木しげるは自分のことを「水木さん」と呼ぶらしい。
先日、新聞で水木さんがとりあげられていたとき読んだ。
以前は「俺」とか「僕」と言っていたらしいが今は「水木さん」だという。
「さん」をつけないで、自分のことを名字だけで言う人もいる。
「私、山田は・・・」というように。
でも、この場合でも「私、」ということばが入るからいいようなもので、会話中にいきなり「うん、山田もそう思うよ。」といわれると、なんだか恥ずかしい気持ちになる。
なにもこちらが恥ずかしがることではないが、なぜか恥ずかしい。
「だから、山田さんはさあ、そうは思わないなあ。」と、自分に「さん」をつけたらどうなのだろう。
アレと思う。
アリャっという感じだ。
なんだかスキだらけな人のようだ。
水木さんは、漫画家だから・・・というか水木しげるのキャラだから違和感がないのか。
あるいは「水木さんを演じる一個の生命体」が、自分の宿る身体に向けて呼びかける時の一人称なのかもしれない。
2012/11/20





輪郭

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すらすら読めてしまった。
読んでいると思ったら、実は見ていたのだ。
ケンブリッジ大学云々の信憑性は疑問だがこの現象には驚いた。
けっこう巷では知られていることらしいが、知らない私には新鮮だった。

先日、長年生やしていたひげを剃った。
しかし、そのことに気付く人が意外に少ないことを面白いと思った。
なにか違う・・・とは思うが、ひげがないことを即座にわからないらしい。
家人は三日経っても気付かなかった。

もちろんひげのない私を、別人だと思う人もいない。
人の肉体は日々少しずつ変化している。
そういう緩やかな変化に対して私たちは免疫を持っていて、多少の変化には疎い。
皆、私の存在をおおざっぱに輪郭として感じているのだろう。

最初と最後の文字があっていれば意味は通じる。
最初と最後の文字は、意味の輪郭なのかもしれないと思った。
2012/11/01





動くことと雑音

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動くものと雑音は必要だ。
「雑音」という「音」が必要なのだ。
騒音ではない。
あくまで雑音。
雑音は気持ちがよい。
作品にもたぶんそういうものが必要なのだろう。
2012/10/15




彫刻家

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福岡道雄さんの新しい本「つくらない彫刻家」を読んだ。
装丁は谷森ゆかりさんだ。
デザイン的ではなく何かが彫刻的に感じらられたのは谷森さんが彫刻家だからだろう。

洋画家のデッサンと、彫刻家のデッサンは違う。
日本画家と、漫画家のデッサンも違うはずだ。
そんなふうにデザイナーの装丁と、彫刻家のそれもやっぱり違うんだなあと、新たな視点でデザインのことが考えられた。

福岡さんの前回の著書「何もすることがない」の装丁はデザイナーの冨里重雄さんだった。
冨里さんはどちらかと言えば美術畑のデザイナーだが、でもそれはデザイナーとしての冨里さんのにおいがしていた。

僕は福岡さんと同じ時代を少し重なって生きているので、おっしゃることが体験的によくわかる。
それぞれの章がすらすらと気持ちよく読めた。
面白い。
そしてやはり福岡さんは「彫刻家」なのだと思った。

本の中で僕のことを「美術家」と書いていただいた。
一言だったが、それがうれしかった。
そして優しい人だと思った。
2012/10/04






かたち

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垂直方向に壁に貼り、ちぎってその隣に貼る。
垂直方向に壁に貼り、ちぎってその隣に貼る。
垂直方向に壁に貼り、ちぎってその隣に貼る。
という、行為を繰り返すと、このようなかたちができます。
方法を定めるだけで必然的にできあがるかたちに興味があります。

素材は、超幅広のマスキングテープ(シンコールインテリア)です。
2012/09/24




消えたもの

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夢の中でムービーについて考えていた。
先日の二人展“kinema”で、四苦八苦したためか夢の中でも考えているようだ。
こういう夢はたいていすぐに忘れてしまい詳細を思い出せず、ついには忘れ去る。
しかし、今日は意外にも少し覚えているので書き留めておこうと思う。

15秒なら15秒間、ある静止画を細切れに映す。
細切れというのは、線でいえば破線のように・・・・あるいはフィルムのコマを丁寧に低速で15秒間写す画面と、それとは別にその静止画像を15秒間そのまま写すような対比についてである。

夢の中で興奮しながら考えていたが、こうやって思い出そうとすると、ちょっと違う感じがする。
夢の中ではもっとダシがきいたふくよかなイメージがあったのに、真昼の頭では味気ない。
何かが僕の脳から消えている。
消えたものは、何が消えたのかもさえわからない。
2012/09/17




イメージサークル

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光がレンズを通ると円形の画像をつくる。これをイメージサークル(Image Circle)という。
通常、写真はこのイメージサークルの一部分を四角い形で切り取り提示するわけだが、考えてみればずいぶん窮屈なルールを、知らず識らずに受け入れてしまっているように思う。
人間の眼は決して四角い風景を捉えるのではない。しかし、四角く区切ることでいろいろな表現のタネが生まれてくることが今さらながら面白い。
最近は正方形の写真を撮影することが多い。それはタテ・ヨコに気をつかわない矩形として、最もイメージサークルに近いのではないかと思うからだ。
とはいえ、水平・垂直の感覚からは逃れることができず、それを常に意識してしまう。たぶん肉体が感じている重力がそうさせるのだと思う。
今回の展覧会は写真が中心になるが、決して写真表現としての写真なのではなく、写真を通して感じる思考と感覚を触覚的に記録しようとしたものに過ぎない。

日下部一司 個展「Image Circle」
2012年9月8日(土)ー29日(土)
ギャラリーヤマグチ クンストバウ

2012/09/01



ことば

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フィルムネガを印画紙に引き伸ばして写真にする。
デジタルと違う部分ですね、だいたい「ネガ」という概念がデジタル写真にはない。
で、引き伸ばしに関する話。
以前から「引き縮め」ということに興味を持っていて、いつかやりたいと思っていた。
つまり、ネガの大きさより遙かに小さく印画することです。
今回の個展で試みようとしたのですが、どうもイメージと違います。
引き縮めると、高解像度の超美しい印画ができるはずなのですが、どうもそうはいかないようで・・・。
印画紙と肉眼がついて行かないわけですね。
今回はバライタ紙に印画して、ブルーとセピアの調色を施したのですが、どうも違うのです。
空想は現実を瞬時に超えますが、現実は空想までなかなか及ばないのです。
ことばで説明する方が絶対面白いことがあるっていうことを今回も改めて知ることになったのです。

2012/09/01





消える

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ナニワ調色剤[ブルー]と[セピア]が製造中止になったようだ。
長年愛用してきたのでショックである。
何よりも残念なのは代替商品がないことである。
この種の薬品は。世の中で不要になってしまったということだろう。
しかし、私にはとても重要な薬品だった。

慌ててネットで在庫購入を試みたが、時すでに遅し。
オークションで1本見つけ、早速これを入手した。
貴重である。

実はこの2種類の薬品は、僕の写真印画に重要な役割を果たしていた。
フィルムカメラを今でも持ち歩いて使っているのは、この調色剤があったからだ。
そうか・・・フィルムカメラ自体がもう終焉を迎えようとしているのだ。

2012/07/26




アザミ

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アザミは大好きな花だ。
二年前京都に仕事で行っていたとき、道ばたに咲いていたアザミの種を持ち帰った。
花が大きくて、その紫と葉の緑がとても美しかったからである。
鉢に種をまいてみたら芽が出た。
しかし、去年は芽が出ただけで花が咲かなかった。
アザミは二年草だとそのときはじめて知った。
二年目の今年、期待していた大きな花ではなく小さな花が咲いた。
世話をしてやらなかったせいで、道ばたの栄養分より貧しい環境を僕は作っていたようで申し訳ない。
で、今年気がついたのは、どの茎にも花がペア(対関係)で咲いているのだ。
しかも最初の花が終わるともう一つの花が咲き始める。
なんだかずいぶん用心深い花だと思った。
二年草であり、二輪の花を咲かす。
この「2」と「2」の関係を発見して、たぶんアザミは偶数強迫観念にとらわれているのではないかと疑う。
2012/07/01




おみやげ

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[パリの空気]マルセル・デュシャン展 高輪美術館カタログより

空気の彫刻
日下部 一司
私がいままでに見つけた印象に残るおみやげは、マルセルデュシャンの[パリの空気]です。
デュシャンはアレンスバーグというニューヨークのコレクターと親交がありました。そのアレンスバーグは「金で買えるものはすべて持っている」と言われるほどの大コレクターで、パリから帰るデュシャンはこのアレンスバーグに何かおみやげはないかと苦心します。
そこで考えたのは「パリの空気」でした。「私はパリの薬局に行き、生理水がいっぱい入ったガラス容器を、中身を抜いたうえで、もう一度封印をしてくれるようにと頼みました。これはパリの空気を50cc詰めた貴重なアンプルです。私は1919年にそれをアレンスバーグのところへ持って帰りました。」(マルセル・デュシャン展-高輪美術館カタログより-1981年)
つまり、カラのガラス容器にパリの空気を詰めて封印し彼へのおみやげにしたのです。
この作品には当時のパリの空気と空間が詰まっています。匂いや温度も封印されているはずです。いかにもデュシャンらしいおみやげで、作品としてもデュシャンのコンセプトがぎゅっと詰まったものなのです。
見方を変えると、これは空気の塊がアンプルの容積の形で成型された彫刻作品でもあるわけです。いわば空気の彫刻・・・小さな50ccの空間ですが、私にはこの空気の塊がとても気になるのです。
(京都造形芸術大学 通信教育補助教材「雲母」10月号掲載)





イメージサークル

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このあいだ通勤電車が止まって30分余り監禁された。
満員電車のせいもあって息苦しくなった。
狭いところが苦手です。
心が身体を制止できないような状態になって「あ、閉所恐怖症かな。」
と、思った。
そういえば、パソコンのポインタがモニターの外に出られないことが気になったり、
最近は耳鳴りがひどく、このうるさい肉体から出られないことに苛立ったりもする。
カメラ屋でイメージサークルの小さい広角レンズを触りながらまた閉所を感じてしまう。

心理的には苦しい画面だけれど、丸いファインダーは新鮮だ。
水平・垂直を測る矩形のモノサシが消えているからだろう。

近寄ることができて、ボケ効果のクセが面白い。
16ミリカメラのレンズ、Cマウントである。
マイクロフォーサーズのカメラにつけて撮ってみた。
試写しただけで、レンズ自体はまだカメラ屋の棚にある。
2012/06/15



動く

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http://www.youtube.com/watch?v=6Cfrm0aZ-90

最近、短いムービーに興味がある。
わずかにずれた静止画が二枚あるだけで、動きを感じることができる。
ある画像からある画像に移る瞬間に「動き」が生じる。
フィルム映画の原理だけれど、最小単位にしてみると意外な新鮮さがあった。
2012/03/05



瞬間動画

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新幹線の車窓から富士山が見えた。
とてもクリアに見えたので嬉しくなってシャッター(iPhone)を押した。
そうしたらこんな写真が撮れた。
手前の電柱や建物が傾いている。
iPhoneカメラの仕組みがわかった。
上から下にスキャンするように画像を組み立てているのだ。



ジャック=アンリ・ラルティーグの写真を思い出す。
スリット状のシャッターがこうしたゆがみを作ることは知っていたが、改めて新鮮な感じがした。
一枚の静止画でありながら、これはもう超短時間ムービーのように見える。
2012/02/12



Reform

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足さず・引かずに、あるものの形が別の形になること。
そういうことに興味を持っている。
例えば粘土をこねて何かを作り、しばらくしてそれをこわして別のものをつくる・・・というようなプラスマイナスゼロのもののありようのことである。
弱い素焼きの器にチャイを容れて飲み、飲み終えたら路上にたたきつけて割る。割った茶碗は土に戻る・・というようなインドの話に似た感覚である。
写真を撮るという行為はこの感覚に近いものがある。
2012/01/08


Movie

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動体視力という言葉がある。
人は、何分の1秒くらいの映像を見ることができるのだろう。
高速シャッターの切れるカメラは確かに一瞬を切り取るのだけれど、もしかしたらその一コマは、例えば8000秒分の1の長さを持つ「ムービー」なのかもしれない。

























2011年

矩形(くけい)

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 カメラは日常世界を写す道具であるが、言うまでもなく日常世界のすべてを写すわけではない。いつもファンダーの中の四角い世界をとらえるだけだ。レンズの前で起こる出来事とその周りの気配を切り取る。
 それにしても、ファインダーのように四角い形はいつの時代から氾濫するようになったのだろう。
 身の回りには、雑誌や新聞などの四角い形、絵画・写真・パソコンや携帯電話のモニター・窓・・・など、さまざまな四角い世界が人為的に存在する。
 風景を写真に撮りながら、四角いフレームと余白について考えてみる。日常風景の中に「余白」は存在するだろうか?大空と大地があっても空のことを「余白」とは呼ばない。空は空なのだ。おそらく日常空間には余白は無い。余白は四角い世界だけの造形概念である。
 四角い世界には四つの辺と角があって、これらが目の前の風景と交わり四角い世界が生まれる。これを絵画とか写真とか映像と呼ぶなら、おそらくこの四角い世界を積極的に意識して風景を見ることが「風景を見る」ことの一つの姿勢に違いない。
 葛飾北斎のこの版画の中で、北斎は二分割・四隅からの作画・形象の反復・均一な余白、等について病的な構成を行っている。このように絵画が綿密な構成が可能な媒体であるのに対し、写真ではそうはいかない。写真の場合は、時間と空間を・その場に居合わせて・いかに切り取るか・ということに尽きる。
 カメラは一つの眼(レンズ)でものを見る。視差が生じない。したがって、カメラの位置が最も重要である。一つの点を定めると、そこから見える風景は、透視図法のように秩序を持って現れる。少しでも視点をずらすなら、また新たな秩序へと変容しながら表情を変える。
 一つの視点と矩形、この二つの座標軸を用いながら風景を見つめ観察することで、あちら(風景)とこちら(矩形)が生み出す秩序のようなものを見つけ出すこと・・・それが風景写真で心がけていることの一つだ。
2011/12/25



シルクスクリーン現像

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陽が射すと影ができる。
影は版画のようでもある。
自分の肉体という「版」を使って、光というインクでプリントするのだ。
「版」が動くと絵も動く。
すごい、動く版画だ。
光の版画というカテゴリーを作って、いろいろ考えてみたらきっと版画自体のとらえ方がふわーっと広がっていくに違いない。
被写体に当たった光が反射して小さな穴やレンズを通過することによって鏡のような映像を結ぶ。それを薬品で化学的に定着したのが写真だ。
昔むかし、カメラオブスキュラと呼ばれる小さな「暗い部屋」を作って、壁に穴をあけ、向かいの壁に映った映像をなぞって絵を描いた。
向かいの風景がそこにリアルに現れてくる。
つまり、人間が写真を現像していたのだ。
人間現像。
シルクスクリーンで写真を刷った。
そういえば、シルクスクリーンによる写真現像というとらえ方もあるなあ。
写真の現像方法としてのシルクスクリーンという技法。
これを、写真のシルクスクリーン現像ともいう。
2011/12/11




行間を読め!

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改行すると行間ができる。
すると「行間を読む」必要が生じる。
困った・・・。
仮に、改行しないで延々と一列に作文したら「行間を読む」必要もないはずだ。
そうそう、極度に幅の狭い巻紙原稿用紙に書いたらいい。
しかし、こんどは「行外」とい場所が生まれ、新たに「行外を読む」必要が生じるばずだ。
・・・行外については、もう対処法がない。文字列が存在する限り行外は必ず付随するからだ。
たとえ一文字であっても「字外」という場所がある。二文字であれば「字間」という新たな発見に悩まされることになる。
屁理屈である。
要するにものの存在にはそこにまつわる様々な要因がくっつくということだ。
いわば不純物がくっついて、ものの存在を可能にしている。
ものをつくるということは、その不純物から逃れられない。
「行間を読め!」とは、私自身に対して発する言葉である。「行間をみろ!」でもよい。
つまり、意識の周辺にあるゴミをいつも見つめる視点を大事にしたいということだ。
2011/11/24



関係(かんけい)

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「もの」と「もの」との関係が気になるのは、おそらく1970年代に現代美術といわれた領域を生きた人だろう。
その詳細説明は面倒なので省く。
あの頃は関係を見つめる眼が研ぎ澄まされていた。

見ようとするものしか見えてこない・・・おそらくこれは正しい見解だと思う。
見ようとしないと、網膜に写った様々な情報は脳に認知されないわけだ。

そこで「関係」の話だが、見ようとしないヒトには見えてこない。
不思議だと思う。

二枚の写真を撮った。
コンクリート壁を背景にそれぞれ雑草が伸びている。
それぞれの位置関係を目で追うと、一つのルールに似たものが見えてくる。
当然ここにはルールなど無い。
それはわかっているが不思議に思う。
もう少し時間が経って、私自身が経験を重ねると、また別のルールが見えてくるに違いない。
人の変化で、世界も変化するはずだ。
そうそう、世界は何も変化をしないのに私の中で解釈の幅が生まれるのだ。
そこがたぶん自分がやろうとしている美術に違いない。
2011/09/21














引き縮め

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「富士縮小用リングセット」というのを買った。



この存在を今まで知らなかった。
発見だった。
暗室で「引き伸ばし」をよくやるが、「引き縮め」は想定外だ。
かつて、フジの引き伸ばしレンズで「やや縮小」をしたことがある。



そのときは1000枚の小写真を壁面にクリップ止めした。
あの大きさが引き伸ばし機で出来る最小サイズではないかと勝手に思い込んでいたが、
実は縮小用の部品があったのだ。



縮小したらどんなことが違ってくるのだろう。
それはまず銀粒子が縮小されることによる超微粒子の写真が出来ることだろう。
銀粒子の大きさがルーペでも確認できない緻密なグラデーション、超微粒子。
それと大きな被写体が常識的な範疇を超えて小さくなる不思議感だろう。
富士山を1ミリ四方の写真に焼くと世界はどんな風に見えるのだろう。
モニターが72dpiでしか見られないように、印画紙の解像度が今度は問題になるのかもしれない。
そして、肉眼はどこまでつきあうことが出来るのか・・・。
2011/06/08




支持体とイメージ

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支持体とイメージの関係も大事だと考えています。
「黒枠」が真っ白な印画紙に焼かれているのではなく、微妙なグラデーションで支持対に滲むプリントを工夫しています。
それはちょうど、水墨画の紙と墨のような関係に似ています。
墨が支持対体としての紙に滲んでいって、図像を作るような映像のあり方に興味を持っています。
2011/04/28






枠のある写真

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いつもカメラを持ち歩いています。必ずバッグに入っているのはフィルムカメラです。撮影したら自分で現像・プリントをしています。
暗室でフィルムをネガキャリアという二枚の板にはさんで引き伸ばし機に装着するのですが、通常このネガキャリアはネガのコマの大きさより小さめの四角い穴が開いていて、写真の周辺に余分な光が漏れないようにしてあります。
しかし、こうした黒枠付きの写真を焼く場合 ヤスリを使って自分でこの穴を広げ、ネガのコマよりわずかに大きな穴を開けて使っています。そうするとコマの周辺から光が漏れて黒い枠ができるのです。
手仕事で穴を広げるわけですから、人によってこの穴の大きさや形が違います。ですからオリジナル写真を証明するいわば印鑑(サイン)のような役割も果たすのです。
なぜこんなことをするのかというと「ネガをトリミングしていない」ということをこの黒枠で伝えたいからです。
私の場合 矩形の比率と構図の関係がとても重要なので、必然的にこうした「黒枠」が必要になるわけです。
決して「オシャレ」に見せたいわけではありません。
2011/03/15





ゆるやかにズレる写真

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この間、Nikon F801 というカメラを中古で買った。
F801 は1988年に発売されたAF 一眼レフカメラである。
当時、世界初8000分の1の高速シャッターが切れるカメラとして発売された。
しかし、恐ろしくデザインが悪い。この頃からニコンはデザインされていないカメラを平気で売るようになったと思う。
だから自分が買って使うとは思わなかった。
ところが先日、当時の価格の30分の1にも満たない値段(ほとんどただ同然)で販売されているのを発見し、悲しいかな衝動買いをしたのだ。
「僕は一瞬が長いと感じた。」という当時のテレビコマーシャルが印象的だった。
8000分の1のシャッター速度では、相当な高速移動の物体も止まって写る。
いやそれだけではなく、明るいレンズが・明るい場所で・絞り開放状態で使え・撮影シーンのバリエーションが増えるということだ。レンズを解放で撮ることが面白くなっていた矢先だったので、つい衝動買いをした。
8000分の1といえば本当に一瞬である。
しかし、私は瞬間を止めることには興味が無い。
むしろスローシャッターだ。
スローシャッターといえば、最近短い動画を撮って遊び始めた。
数秒のお手軽写真・ほんの短いムービー、いわば緩やかにズレていく写真である。
これはニコンF801の対極にある写真だけれど、コマーシャルのように やはり「一瞬は長い」のかもしれない。
2011/03/12



生きざま なんていう言葉はない。

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ある座談会の席上で「死にざま という言葉はあるが、生きざま なんていう言葉はない!」と版画家・舩井裕が語った時の、あの声をいつまでも覚えている。

サインはあるがタイトルはない。
エディションは無いがサインはある。
版画家・舩井裕のそういう作品を僕は1点持っている。
少し黄色いケント紙のような紙は、当時平和紙業で扱っていた「PHO・250kg」紙であり、インクはおそらく長瀬スクリーン工業製の「トップ」を使って刷られているはずだ。
シルクスクリーン・二色刷。
白いベタと黒の線。
やや縦長の紙に印刷してあるが、ベタ面は正方形だ。
サインはその正方形の右下にあった。
この場合、版画家・舩井裕の作品イメージは正方形の中にあるのだろうか。
あるいは、やや縦長の紙の矩形そのものなのだろうか。
当時は気にならなかった この版画用紙の比率と正方形の位置が どうも気になる。
昨年他界された先生の作品を前に、今それを考えている。
2011/02/27





関係が意味を作るのか、意味が関係を作るのか。

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 銀板写真という写真技法がありました。ダゲレオタイプ(Daguerreotype)とも呼ばれています。フランス人ダゲール(Louis Jacques Mand試 Daguerre)が発明した世界最初の実用写真技法で、銅版の表面に銀メッキを施し磨き上げ、沃素に浸した後に撮影し、水銀蒸気で現像する・・・という手間のかかる技法です。銀板表面に写ったイメージは、構造上焼き増しすることができませんから、一枚だけの貴重な記録として珍重されました。
 ダゲレオタイプのサイズは小さいものです。せいぜいハガキくらいのもので、しかし重いのです。それもそのはず写真自体が銀メッキされた銅板ですから、紙焼きの写真とは趣が違うのです。画像が玉虫色に輝き、ずしりとくる重さの写真はそのままオブジェとしての存在感を持っていました。
 この写真を当時は「記憶する鏡」と呼んでいたらしい。なんとロマンチックな命名でしょう。毎日覗く鏡は私のことをすぐ忘れてしまいますが、この鏡は決して忘れずいつまでも覚えているのです。そもそも昔の鏡は銅板を磨き上げた「銅鏡」であったことに由来する命名なのですが、被写体を忘れない「記憶する鏡」が写真の始まりだったのです。
 このオブジェのような写真に興味を持ったのをきっかけに、私は十数年前から古典印画法を研究しています。ガム印画とかサイアノタイプ、ブロムオイル法や鶏卵紙など、いろいろな写真印画法を試みました。
 そういう作業を行ううちに自分は写真内容よりも、支持体の質や触覚的な感じ・・・いわば皮膚感に触発されていたことに気づいたのです。
 関係が意味を作るのか、意味が関係を作るのか・・・そういう作品の生成に関する設問が私の中にあります。写真というソフトが、支持体というハードに出会う、その関係の仕方が意味を新たに生むことだってあるのだと最近は思い始めています。



「素の味」

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 料理や味付けをして食べるのは人間だけだそうだ。確かにほかの動物は自ら調理をしない。猫や犬・家畜の類には人間が味付けした餌を与えたりもするが、基本的に彼ら自身が素材に味を求めたわけではない。いつか夏の暑い日に、よく冷えた豆腐をそのまま手づかみで食べたことがあった。あれはおいしかった。醤油味の湯豆腐やがんもどきでもなく、単なる素材があんなにおいしいことがわかるようになってから、食べ物に関する考え方が変わった。
 「素の味」と題したこの展覧会は、ちょうど豆腐を冷やすぐらいの作意をもって制作に関わったこの数年間の新作展である。



ちょっとの休憩のつもりが数年間の休憩だったりする。

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 失敗は数多くある。他人には絶対言えない失敗もあるし、話してみてもそれがどうしたというようなものもある。この歳になるのだから数は限りない。
 で、「思い出の失敗は」と聞かれたら、当然古い記憶へと遡る。古い話なら他人事のように話せるかもしれない。
 高校生の頃の話。僕にもそんな時代があった。しかし、つい最近のような感覚で当時の自分と今の自分がつながっている。不思議な感じだ。
 カユガワという数学の教師がいた。カユガワは口うるさい教員で僕たちには疎ましい存在であった。今なら「カユガワ先生」と呼べるだろうが、当時の僕は生意気な子供だったから、呼び捨てにしていたのだ。恥ずかしいと、今思う。
 美術部に所属していた僕は、部室の棚の奥にほこりをかぶった油絵具箱を発見していた。
中には使いかけだったけれど、油絵の具の全色ときれいな筆が数本入っていた。
 ある日それはカユガワのものだと知ることになるのだが、あのカユガワと油絵の具という関係がずいぶん違和感を持って感じられた。
 ある日、廊下でカユガワとすれ違ったとき僕は思いきってこう切り出した。
「美術室にあるあの油絵の具、使わないんだったら僕にくれませんか?」
 カユガワは、むっとなってしばらくの沈黙の後こう言った。
「俺に絵を描くなと言うのか!?」
 これが僕の、今最初に思い出す失敗の話だ。
案外当時はこれを「失敗」だと、気づかなかったのかもしれない。この場の会話で気まずい思いをしたが、思慮の足らない当時の小さな頭では単なる気まずさ以上の感覚を感じなかったのに違いない。あるいは、今になってあの気まずい出来事が「失敗」だと思えるようになったと言うことだろうか。
 今になるとあの時のことが消しゴムで消したい汚点となって鮮明に思い起こされるようになった。おそらく僕自身がカユガワと同じくらいの年齢にさしかかっているからだろう。
 カユガワの絵の具箱はほこりだらけだったけれど、カユガワはほんのちょっと制作を休んでいただけだったのだ。



箱写真とは。

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「箱写真」とは、「箱に入った写真」の意味です。
 これまで写真と支持体について考えてきましたが、その中でもっとも興味深いのは支持体の持つ触覚に関することでした。何が写っているか・・・という内容もさることながら、支持体の持つ触感も写真を成り立たせる要素として重要なものだと考えています。
 写真の歴史は銀板写真から始まりました。小さな金属片に焼き付けた光の痕跡は「記憶する鏡」と呼ばれ、あたかも宝石のように所有され・愛玩されたのです。しかし、今日の多くの写真はモニターに出現する虚像としてのうつろな存在として日々消費され、「触れる」という触覚的な部分を失っています。
 「手に取る」「重さを確かめる」「肌合いを楽しむ」「所有する」というような写真の感触が制作のテーマになっています。



些細なことが本題となってものごとが決まっていくような作品が作りたい。

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[space game]相手が一つ点を打つ。その点を意識しながら私が次の点を打つ。そうすると、相手が次の点を打ち私がそれに応える。ついには手が無くなり終わりを迎えるような状態をいつも意識している。

[沈黙の音]武満徹の著書に「音、沈黙と測りあえるほどに」というのがあって学生時代に読んだ。内容の詳細は忘れてしまったが、この本のタイトルだけがいつまでも忘れられない。対極の状態をメビウスの帯のように等価に結びつけてしまうそのとらえ方が気に入っているのだろう。

[Esquisse]25枚の小さな写真を箱に入れようと思う。箱の大きさ・質感・重量がまずあって、そこに入れる写真の大きさ・質感、重さや厚さや内容が決まっていく作業の流れが面白かった。

[虚々実々]オークションでシャープペンシルの芯を大量に買った。1000本は軽くあると思う。きっと一生かかっても使い切れない本数である。何本かを平らに並べて写真を撮った。虚々実々→《「虚」は備えにすきがあり、「実」は備えが堅い意》相手の備えの堅いところを避け、すきをねらい、互いに計略や秘術の限りを尽くして戦うこと。虚実。「-の駆け引き」

[午後]声や匂いや気温や湿度のようなものをモチーフにしようと思う。

[switch on]矩形が気になる。四つの直角を持つ四角いカタチ。そこに絵を描いたりする。四角いかたちの内側がいつも問題になってしまうこと、そこが気になる。

[sculpture]粘土を使って「うつわ」を作ってみた。でも焼いていないから、ただの乾燥した粘土といった方が良いかもしれない。水に浸せば元の粘土に戻っていく。百年後でも千年後であってもいつでもただの粘土に帰っていく。なんだかすばらしい発見をしたように思えた。

[記号的風景]必要だからそこにある。なんだ、単純な理由で成り立っているのだ。

[タネアカシ]なにかの本を読んでいて、妙に「ネ」というカタカナのバランスが気になってしまったことがある。右側の点の作り出す空間が何とも美しくそれに目がいったのだ。それ以来あの「ネ」を探すのだけれど出会えない。作ろうと思っても再現できない。

[上昇気流]カルダーの十八番は「モビール」である。あれは誰が作っても、カルダーの専売特許として飲み込まれてしまう。

[Magic]一部を切り取り区切るというところが写真の一番面白いところだ。

[近似計算的]「JEWELRY SEAL」というきらきら光るデコシールを買った。秩序がありそうで実は無いこのきらきらの並びが気になったためだ。水平垂直に並んでいるかのように見えたジュエリーも、よく見たら位置関係がばらばらで歪んでいる。しかし、そこがこの商品の魅力的な部分なのだが。

[過不足なし]それぞれがそれぞれの役割を果たすことで世の中は成り立っている。しかし、作品はそんな具合にはいかない場合が多い。不必要なことがあんがい重要になってきたりもするから。

[枝葉末節が本筋になる]些細なことが本題となってものごとが決まっていくような作品が作りたい。



無関係に散在すること・・・これは、日常生活の有り様と似ている。

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 パソコンで画像をいじるようになって、急速に写真の記録性が失われたように思う。
 光学的な原理で感光材に焼き付けられた像がその後の加工で形を変える。おそらくそれは加工者のイメージに近づけるための止むに止まれぬ欲求のなせる技であるのだが、そのことによって写真の持つ記録性の信用が失われたのだ。
  かつて写真の創世期には、その冷静な記録性、つまり記録方法としての恣意性の無さが写実絵画の存在を揺るがしたというが、今日では写真も絵画の一手法へと吸収合併されてしまった感じさえする。
 もっとも、合成写真や演出、特撮などによる技法はアナログレベルで古くから行われてきたし、写真の記録性の喪失をパソコンのせいだと咎めるわけにもいかない。ただ、見え透いた嘘ならいざ知らず、巧妙な嘘が頻繁につかれるようになると、羊飼い少年の寓話よろしく村人は写真への信用を失ってしまった、ということだろう。
 で、写真の魅力は、だから無くなったのか、といえばそうではない。嘘をついてもなお魅力を持っている。
 たくさんの魅力があるだろうが、私の場合はその魅力の一つに支持体の持つ物質性をあげたい。印画紙、感光乳剤の質感、色、肌触りなどである。あるいは印刷やコピー紙の上の写真のあり方の相違についてである。抹消的でマニアックな視点と言われるかもしれないが、モニターで見る写真と印画紙で見る写真は明らかに違う。
 もう一つは鑑賞時の空間性である。つまり、写真の大きさやそれを見る場所の問題のことだ。
 一枚一枚手にとって見る小さな写真とパネル張りした大きな写真は見え方がちがう。同じパネル張り写真も画廊や美術館と自宅の壁では内容まで変わってしまう。
 これは、そこになにが写っているかではなく、なにがどのようにそこにあるか、という写真の持つもう一つの側面の存在を端的に表しているように思う。
 たぶん私の関心事は、画像と物質がうまい関係を持ちながらどのようにそこにあるか、ということが一番にくるようだ。誤解を恐れながら言えば、何が写っているのかは、とりあえずたいした問題ではないとさえ思っている。
 「あちらこちら」と言うタイトルは、散在する無関係なものの有り様の中に、ある秩序のようなものがぼんやり現れることを願ってつけた。無関係に散在すること・・・これは、日常生活の有り様と似ている。



「手持ちの言葉」

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作品はそれ自体完結した存在ではありますが、展示される場所や空間・組み合わせによって見え方を変え、時には意味の変容をも行います。私はこうした点に以前から深い関心を持っていました。
 つまり、我々は画廊や美術館で個々の「作品」を見ていたのではなく、「展覧会」自体を見ていたのかもしれません。
 今回は、こうした展覧会を作り上げるモチーフとして自作を位置づけ、展覧会自体が新たな作品として成立することについて試みたいと思います。
 「手持ちの言葉」というタイトルは、これまで制作した私自身の作品についてのたとえであり、手持ちの言葉を繋げて語る今回の展覧会を形容する言葉でもあります。